<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rdf:RDF
  xmlns="http://purl.org/rss/1.0/"
  xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#"
  xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
  xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
  xml:lang="ja">
<channel rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/">
  <title>メロウ伝承館</title>
  <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/</link>
      <description>平成シニアが後世に贈るプロジェクト</description>
        <dc:date>2008-11-23T04:12:17+09:00</dc:date>
        <dc:language>ja</dc:language>
    <items>
    <rdf:Seq>
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=823&amp;post_id=3630#forumpost3630" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=832&amp;post_id=3629#forumpost3629" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=831&amp;post_id=3625#forumpost3625" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=830&amp;post_id=3619#forumpost3619" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=829&amp;post_id=3610#forumpost3610" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=828&amp;post_id=3607#forumpost3607" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=827&amp;post_id=3599#forumpost3599" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=826&amp;post_id=3579#forumpost3579" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=8&amp;topic_id=825&amp;post_id=3568#forumpost3568" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=819&amp;post_id=3547#forumpost3547" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=822&amp;post_id=3545#forumpost3545" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=821&amp;post_id=3536#forumpost3536" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=820&amp;post_id=3534#forumpost3534" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=818&amp;post_id=3482#forumpost3482" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=817&amp;post_id=3481#forumpost3481" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=816&amp;post_id=3474#forumpost3474" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=808&amp;post_id=3467#forumpost3467" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=813&amp;post_id=3462#forumpost3462" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=815&amp;post_id=3459#forumpost3459" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=14&amp;topic_id=814&amp;post_id=3454#forumpost3454" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=812&amp;post_id=3432#forumpost3432" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=809&amp;post_id=3428#forumpost3428" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=810&amp;post_id=3414#forumpost3414" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=14&amp;topic_id=799&amp;post_id=3406#forumpost3406" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=776&amp;post_id=3405#forumpost3405" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=787&amp;post_id=3395#forumpost3395" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=11&amp;topic_id=807&amp;post_id=3377#forumpost3377" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=11&amp;topic_id=806&amp;post_id=3372#forumpost3372" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=805&amp;post_id=3367#forumpost3367" />
          <rdf:li rdf:resource="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=804&amp;post_id=3361#forumpost3361" />
        </rdf:Seq>
  </items>
</channel>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=823&amp;post_id=3630#forumpost3630">
    <title>捕虜と通訳 （小林 一雄）第二部・４３</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=823&amp;post_id=3630#forumpost3630</link>
          <description> 恩人を捜すアメリカ軍中尉との再会に涙して・４ それから二か月ばかり経った九月下旬だった。彼から這の手紙が舞い込んだ。「多奈川の捕虜収容所時代に所内の管理費任者だった日本軍人の?ミネモト〃さんが、戦後、戦犯裁判で刑を宣告され、長い間、巣鴨プリズンで ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[<br />　恩人を捜すアメリカ軍中尉との再会に涙して・４<br /><br />　それから二か月ばかり経った九月下旬だった。彼から這の手紙が舞い込んだ。「多奈川の捕虜収容所時代に所内の管理費任者だった日本軍人の?ミネモト〃さんが、戦後、戦犯裁判で刑を宣告され、長い間、巣鴨プリズンで苦しまれたことを知りました。摘虜虐待ということだそぅですが、本当にお気の毒で、残念です。確かにそれは裁判の誤りだと思います。あなたがそんな裁きを受けるようなことをした事実は思い出せません」こんな文章で始まる?ミネモ卜″さん宛の手紙が同封され「戦犯という十字架を背負って生きているミネモトさんに早く手渡してください」とつけ加えられていた。<br />　だが、その峰本さんがどこに住んでいるのか、私にはまったくわからない。途方に暮れながらも「新聞にこのニュースを報道してもらえれば、きっと反応がある。住所がわかるかも知れない」私は友人の知っている産経新聞社にさっそく連絡してもらい、大きく報道された。<br />　反応はすぐ出た。記事が掲載されたその日に、峰本さんの友人がその新聞を見て彼に知らせた。産経新聞記者も彼を訪ねてきた。<br />　?ミネモト〃さんから私に電話がきた。明るいことばがはね返ってきた。懐しい声が響いてきた。<br />　私は、ブロードウオーターさんと会った契機に始まって、収容所当時の思い出、関係者の所在を捜し求めていること、戦後のそれぞれの生活など、さまざまなことについて話し合ったことを伝えた。そして「あなたが戦犯として巣鴨で苦労されたことを残念がり、あなたは決してそんな罪刑に値いする行為はしていい。あなたに罪刑を課したあの裁判は誤りだった、というブロードウォーターさんからの手紙を預っている」と話した。<br />　「私の無実を証明してくれたブロードウォーターさんにお礼をいいたい。ありがたい。もう過ぎ去ったことは仕方がないが、無実だったことを証言するアメリカ人が生きておられることは何よりも心強い。仏に会った気持ちです」峰本さんは、三十九年ぶりにえん罪が晴らされた喜びを、静かな口調の中に、力いっぱい表現しているようだった。<br />　ブロードウオーターさんの手紙をつづけて読んだ。「思い出すのは、あなたの多くの親切な行為です。キャンプ農園をつくってくれたこと、タマネギの買い出しに連れていってくれたこと、それらが捕虜生活をどれだけ助けてくれたことでしょう。お互い、一度は軍人であり、敵味方に分かれていたが、いまはともに老人です。奇妙な境遇におかれたのも何かの運命だったと思います。いまは過去をふり返りつつも、お互い祖国のために犠牲になった過去を誇りに思い、あきらめましょう」「あの調べを受けた時、私自身が無実を訴え、さまざまな実例を挙げて説明しようと思ったが言葉が十分に通じず、なかば一方的に有罪を押しっけられたかっこうだった。情けなかったですね。私が受けたC級戦犯の汚名とその辛さは、神に誓って潔白だっただけに、誰にもわからない気がします。不当な裁判でした。それにしても収容所時代、ブロードウオーターさんらといっしょに町に買い物に行き憲兵に叱られたこともありました峰本さんの思い出は、電話口から、とどまることもなく吐き出された。<br />　奈良市内に奥さんと平穏な日々を送る峰本さんは、戦後、大阪信用保証協会に勤務し、五十三年（−九七八）春、理事を最後に年金暮らしの身。電話連絡で詳細を知った峰本さんはその後、私の経営する大阪市南区の会社を訪れ、久しぶりに懐しい顔を拝見した。ブロードウオーター氏の手紙を渡した。<br />　峰本さんは、四十六年（一九七一）秋、アメリカのベンチユラ・ダウンタウン・ライオンズクラブと日本の姉妹関係クラブとの会合が日本で行われた時にメンバーの一人として来日した、収容所時代の炊事班長エドワード・コイルさん（当時軍曹）＝EDWARD・COYLE＝ と奈良ホテルで会っている。戦時中に交換した簡単な住所メモを頼りに、突然、「奈良にいる」との連絡があり会見が実現したという。対面後、峰本さんはコイルさん夫婦を大阪に招き、観光見物、手みやげを交換して旧交を暖めた。この久々の対面の模様は、ライオンズクラブ会合の取材で同行したベンチユラ・ダウンタウンの地元紙記者、ロバート・アラス氏（ROBERT・ARRAS）によって詳細に写真入りで報道され、後日、峰本さんにその掲載紙を送ってきた。<br />　峰本さんも、できれば収容所時代の多くの人びととの友情を復活させたいと願っていたが、捜す手だてもなく困っていた。<br />　こうしたことのあった直後、私は、コイルさんの消息を知りたいと、峰本さんとの対面を掲載したアメリカの新聞社に電話をした。彼はその新聞社に勤務していたが、すでに五年前に死亡し、遺族の行方も明らかでないということだった。遅すぎたが、ここでも歴史の足音の早さを痛感させられた。ぜひ会いたい一人だっただけに残念だった。心からご冥福をお祈りしたい。<br />　ブロードウォーターさんからの手紙の中には峰本さん宛の手紙の他に、倉西未亡人宛の丁重なお悔みと遺族への激励のことばに満ちた手紙も同封されていた。<br />　峰本さんと倉西先生の娘さん　（新井ミネ子さん）　は、今でも時々、ブロードウオーター氏と文通して旧交を温めているという。いつまでも?善意の人間″としてのつながりを大切に持ちつづけ、友情を膨らませつづけたいと願っている。<br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-11-14T08:15:30+09:00</dc:date>
              <dc:creator>kousei3</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=832&amp;post_id=3629#forumpost3629">
    <title>Re: 成瀬孫仁日記（五）昭和十六年十二月〜昭和十七年一月</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=832&amp;post_id=3629#forumpost3629</link>
          <description> 十二月二十一日（日） 晴 暖 午後、ハルビン書房に原好一氏を訪ねる。先日話を通じていた件について翻訳しますと言うと直ぐ一冊の金ピカの本を持って来られたのには驚いた。ロシア語を日本語に書き替えると思うな。西伯利亜の歴史、地理、民族、生物等の勉強しなき ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[<b>十二月二十一日（日）</b>　晴　暖<br />　午後、ハルビン書房に原好一氏を訪ねる。先日話を通じていた件について翻訳しますと言うと直ぐ一冊の金ピカの本を持って来られたのには驚いた。ロシア語を日本語に書き替えると思うな。西伯利亜の歴史、地理、民族、生物等の勉強しなきゃとても出来ないよ。<br />まあ最初は一日二貴か三頁だなと言われた。<br />　晩飯、天丼。<br /><br /><b>十二月二十三日（火）</b>　晴　寒<br />　今朝の寒さは又格別。地段街でうらめしい位足が痛くなり「登気和」へ飛び込んだ。<br />　キタイスカヤの「秋林」へ始めて入る。南崗のよりも重厚な感じ。<br />　高橋の爺<b>（5）</b>の糞ったれ、あのばばも生意気だ、二人共耄碌しかけているから駄目だ。馬鹿野郎。靴の破れ目から寒気が入りうらめしい。被害者は俺一人ではないぞ。<br /><br /><b>十二月二十四日（水）</b>　晴　寒<br />　最近特に寒し、今日など零下二十八鹿に達する由。<br />　皇軍ウェーク島完全占領。ランダウン大猛爆、敵機数十機血まつりにあげる。戦果のかげに尊い犠牲あり。ウェーク島で駆逐艦四隻沈没。<br />　佛蘭西のベタン首席辞職す。<br /><br /><b>十二月二十五日（木）</b>　晴　寒<br />　寒い事ったら本当にどうしようかと思う。全く泣き出したい気持になる。朝遂に零下三十五度を超える。<br />　香港島遂に陥落。開戦以来十八日目である。英国降伏申出午後五時五十分、戦闘中止七時三十分。<br /><br /><b>十二月二十七日（土）</b>　晴　寒<br />　川辺が吾が家（？）に来る。彼と一緒に居ると先ず第一に砂糖。甘いものさえあれば御機嫌である。吾が家（？）には米内先生が砂糖を充分準備して置いて呉れたので夜十二時五十分頃まで話し込んで帰った。<br /><br /><b>十二月二十八日（日）</b>　晴　寒<br />　昨夜夜更かしのため朝寝しているし川辺が来て扉をたたく。御飯を炊くといって台所から何かかんか持って帰って行った。帰りに昼食を食べに来いと。昼食は川辺宅（？）で会食。結構うまい。物好きだね。<br />　ルスキーの電気の集金人が来て思わず金を払ってしまった。大丈夫だったのかね。<br /><br /><b>十二月三十一日（水）</b>　晴　暖<br />　昭和十六年最後の日、個人的にも国家的にも多事多難であった。<br />静かに考えると世の中の進歩の速さに比べ、自己ののろきに涙落つ。<br />　日誌もー年間完全に誌した事は生まれて始めて。一つの収穫か。<br />　南方の戦場で皇軍の戦勝の進軍は続く。<br />　あと三十秒で昭和十七年の元旦を迎える。<br /><br /><b>（5）</b><br />十二月二十三日。えらく高橋さん御夫婦のことを糞味噌に書いているが、靴の破れ目から寒気が入るとか被害者は俺一人ではないとかさっぱり何のことか覚えていない。改めてわが身の至らなさを恥じて陳謝いたします。]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-11-05T21:51:06+09:00</dc:date>
              <dc:creator>あんみつ姫</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=831&amp;post_id=3625#forumpost3625">
    <title>Re: 成瀬孫仁日記（四）昭和十六年十月〜十一月</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=831&amp;post_id=3625#forumpost3625</link>
          <description> 十一月二十二日（土） 晴 暖 朝、六時起床。午前九時五十分発列車で新京へ出発。車中「突貫小僧」の一行が同車する。午後四時五十分新京駅着。谷上さん宅へ行く。 十一月二十三日（日） 晴 暖 起きるのが遅く、朝食もおそくなる。神武殿を探して漸く行くと、第一回 ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[<b>十一月二十二日（土）</b>　晴　暖<br />　朝、六時起床。午前九時五十分発列車で新京へ出発。車中「突貫小僧」の一行が同車する。午後四時五十分新京駅着。谷上さん宅へ行く。<br /><br /><b>十一月二十三日（日）</b>　晴　暖<br />　起きるのが遅く、朝食もおそくなる。神武殿を探して漸く行くと、第一回戦で負けていた。皆泣いていた。<br />　柔道も負けた。剣道も負けた。柔道は建国大学が、剣道は新京工大が優勝した。<br />　晩、「菜羹香」で同窓会をして下さる。前院長三毛一夫先生を始め多数の先輩の方々の出席あり。<br />　夜、十一時五十分発の列車で新京を発つ。<br /><br /><b>十一月二十四日（月）</b>　晴　寒<br />　列車朝七時半頃哈爾濱駅着。直ちに登校。朝礼に出ないで朝食、授業に出る。<br />　胡麻本先生の時間に申詳ないと思いながら愉安の夢の世界をさまよう。<br /><br /><b>十一月二十五日（火）</b>　晴　寒<br />　教練の時間に急に出たくなくなったので、秋林へ出る。白井長助先生に会う。「成瀬、今日は少し寒いが天気も良いし、休みとは良いな」例の痛裂な皮肉、眠が右上方の空を睨んでいた。<br /><br /><b>十一月二十六日（水）</b>　晴雪　寒<br />　雪が降った。僅かであるが、何日振りだろうか、今年初めてではないだろうか。<br />　民政部大臣視察のため来院。日本語のあまりうまいのに一驚する。<br /><br /><b>十一月二十九日（土）</b>　晴　寒<br />　零下二十度を越す。風がないのであまり感じない。寒さ安定して暖かさを感じる。<br />　スケート靴を売る。金三十円。昨年買う時はたしか二十三円だった。<br />　川辺と二人で東京飯店へロシヤ料理を食べに行く。紅茶がおいしい。<br /><br /><b>十一月三十日（日）</b>　晴　寒<br />　八区運動場の宣徳体育館で武道大会有り。<br />　柔道、一般の部に一組。学生の部に二組出場、共に優勝する。<br />　夜、「銀鍋」で三年生の送別会、優勝会、その他種々の意味を掛けて祝宴を開く。くたくたに酔ってしまい、馬場と春日に助けられて帰る。<br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-11-04T10:44:25+09:00</dc:date>
              <dc:creator>kousei2</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=830&amp;post_id=3619#forumpost3619">
    <title>Re: 成瀬孫仁日記（三） 昭和十六年八月〜九月</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=830&amp;post_id=3619#forumpost3619</link>
          <description> 九月二十六日（金） 晴 涼 五時に小豆島発。宇高連絡船午後九時十分高松発。岡山発午後十一時三十一分の急行で下関へ。 九月二十七日（土） 晴 涼 朝、六時三十分下関着。午前十時三十分発関釜連絡船に乗船開始九時三十分。 昼間の連絡船に乗るのは始めて。朝鮮海 ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[<b>　九月二十六日（金）</b>　晴　　涼<br />　五時に小豆島発。宇高連絡船午後九時十分高松発。岡山発午後十一時三十一分の急行で下関へ。<br /><br /><b>　九月二十七日（土）</b>　晴　涼<br />　朝、六時三十分下関着。午前十時三十分発関釜連絡船に乗船開始九時三十分。<br />　昼間の連絡船に乗るのは始めて。朝鮮海峡は「天気清瓏なれど波高し」の天候だった。<br />　六時、釜山着、下船は最後になったが、列車の席は取れた。<br /><br /><b>　九月二十九日　（月）</b>　晴後雨　暖<br />　昨夜列車の内は空いていて横になれたのは良かったが、寒くって風邪を引いた。<br />　朝、八時過新京着。駅の構内で直ぐペストの注射をされて、腕が痛く腫上がったが、注射の証明書を持たないと駅から出して呉れない。新京はひどい埃だった。<br />　本屋で三年生　（20期）の人に会う。十月一日から学院でロシヤ語の授業だと。するとソ聯との斗いはないかなと想う。<br /><br /><b>　九月三十日　（火）</b>　晴　暖<br />　朝九時二十分新京駅発。列車は空いている。晩、春日と街へ出る。大阪の心斎橋で食べた「握り寿司」が忘れられず寿司屋に寄った。心斎橋で一個二銭だったものが一個二十銭とは驚いた。「ねた」も良くない。失望して帰る。<br />　三年生が寮に来ている。大阪外語、東京外語の人達も一緒。<br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-11-04T10:00:41+09:00</dc:date>
              <dc:creator>kousei2</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=829&amp;post_id=3610#forumpost3610">
    <title>得猪機捜索顛末より （コケコッコー）</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=829&amp;post_id=3610#forumpost3610</link>
          <description> これは、コケッコッコーさんより頂戴した投稿です。 日中戦争で飛行長故得猪中佐が武漢近くで戦死された際 部下の人たちが捜索隊を出した時の記録です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 得猪機捜索顛末より 捜索隊指揮官海軍大尉 勝 ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[<br />　これは、コケッコッコーさんより頂戴した投稿です。<br /><br />　日中戦争で飛行長故得猪中佐が武漢近くで戦死された際<br />　部下の人たちが捜索隊を出した時の記録です。<br /><br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br /><br />　得猪機捜索顛末より<br />　捜索隊指揮官海軍大尉　勝見五郎<br /><br />　昭和十三年四月二十六日孝感ノ空襲ニオイテ我等ノ最モ崇拝スル飛行長故得猪中佐ヲ始メ最愛ノ部下故今村大尉以下六名ノ戦友ヲ失ッテ早六ケ月ガ経過シタ。ソノ間戦友一同トトモに復讐ノ念二燃エツツ故人ノ遺骸ヲ収容センモノト念顛シナイ日ハナカッタ。<br />　偶々十二月十七日陸軍藤江部隊ノ警備区内二於イテ海軍機ノ墜落現場ヲ発見セル旨報二接シ得猪機ナル予想ノ下二捜索隊ヲ派遣サレル事ニナツタ。<br />　（中略）<br />　十八日黎明ニハ小雨降り風強カリシヲ以ッテ延期シヨウト考エタガ夜明ノ空ヲ眺メ兎二角出発スルコトニシタ。午前八時整列司令ノ命ヲ受ケ自動車二分乗出発。橋梁破壊ノ為漢口駅カラハ列車ノ運転不能ナリシヲ以ツテ耳口駅マデ自動車デ行ク、九時半頃耳口駅着、麦俵満載ノ無蓋貨車二乗り十一時三十分頃孝感車站二到着。<br />　態々迎エラレタ藤江部隊水谷参謀ノ案内二依り孝感県二至り師団長二面謁シタガ海軍航空隊ノ活躍卜得猪中佐以下故人二対シ敬意ヲ表スル旨極メテ丁重ナル御言葉二預カリ感激ス。次イデ参謀長二面会同室ニテ水谷参謀及内田通訳官（得猪機捜索二尽力サレタ人）　ヨリ状況ヲ聴取ス。<br />ソノ大要ハ別紙内田通訳管報告二尽キテイルカラ省略スルガ墜落現場カラ拾ツテキタ遺品ヲ見テ得猪中佐ノ軍服ノ一片二間違イナキヲ確認シタノデ大イニ意ヲ強ウシタ次第デアル。<br />　墜落現場ハ占領区域内デハアルガ未ダ治安維持会組織サレタ許リデ付近部落ニハ約二千ノ土匪ガ出没スル有様ナレバ師団デモ心配サレ特二三叉埠駐屯の軽重連隊ヲシテ応援セシメルコトニナツタ。<br />　午後二時孝感県出発二時四十分頃孝感車站発ノ列車（貨車）　ニ便乗、午後三時三十分三又埠ノ部落二到着ス。ソノ頃雨ハ本格的ニ降り出シ寒気甚ダシキヲ以ツテ連隊長ノ指示二従イ捜索ヲ翌日二延期シテ同夜ハ連隊二宿泊ス。困苦欠乏甚ダシキ陸軍部隊ノ生活ヲ味ワウ機会ヲ得タリ。翌十九日午前八時連隊発現地二向フ、連隊カラハ軍曹ヲ長トスル三十五名ノ警戒兵ヲ増援セラレタリ。<br />　昨夜来ノ雨未ダ止マズ道路ハ全ク泥濘化シテ歩行困難ヤヤモスレバ隊列延ビル有様ナリシモ一同元気旺盛遂二午前十時頃劉建廟二到着一帯ノ警戒ヲ陸軍二依頼シ直チニ作業ヲ開始ス。<br /><br />墜落現場ノ状況<br />　麦畑ニシテ全部耕作セラレ付近ノ池畔ヲ少シク残スノミ（付図参照）土民ノ援助ヲ得テ現場ヲ発掘スルニ尚同様ノ残砕多数発見セリ、ソノ他参考ニナルモノハ飛行服ノバンド、飛行靴、飛行服地、士官軍服地等何レモソレラシキ物卜判断シ得ル程度ノ焼ケタル小片ニシテ勿論誰ノモノカ知ルヲ得ズ、火炎二吹キ上ゲラレテ飛散セルモノナレバ、ソノ他ハ一切手掛カリナシ、残滓ノ一部（可ル可ク骨ノ付タルモノ）　ヲ得猪中佐以下七士の遺骸トシテ収容、他ハ全部墜落位置二集メ宮川三空曹ノ遺骸ノ一部卜共二埋葬墓標ヲ建ツ、周囲二柵を囲ラシ線香、ローソク等ヲ供エタリ。（中略）<br />　本行動中水谷参謀、内田通訳官、軽重連隊及ビ各乗車駅ニテ陸軍側ヨリ受ケタル絶大ナル御援助二対シ感謝二絶エズ、又李先林父子ノ行為二対シ感激惜ク能ハズルモノガアル、遺骨ハ今ヤ戦友二守ラレテ隊内二安置セラレ将ニ母国二帰ラントスル、茲二冥福ヲ祈り擱筆ス　（終）<br /><br /><a href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/photos/843.jpg" target="_blank"><img src="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/thumbs/843.jpg" align="left" alt="" /></a><br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-11-01T08:16:36+09:00</dc:date>
              <dc:creator>kousei3</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=828&amp;post_id=3607#forumpost3607">
    <title>Re: 成瀬孫仁日記（二） 昭和十六年六月〜七月</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=828&amp;post_id=3607#forumpost3607</link>
          <description> 白井長助さんのことども （成 瀬 孫 仁） 一学年一学級、一学級五十名、一年生から五年生まで全員二百三十名の離島（香川県小豆島）の田舎中学校から哈爾浜学院へ入って驚いたことが二つあった。 一つは教練のルーズなこと（後では厳しくなったが、入学当時の昭和 ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[<b>白井長助さんのことども</b><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<b>（成　瀬　孫　仁）</b><br /><br />一学年一学級、一学級五十名、一年生から五年生まで全員二百三十名の離島（香川県小豆島）の田舎中学校から哈爾浜学院へ入って驚いたことが二つあった。<br /><br />一つは教練のルーズなこと（後では厳しくなったが、入学当時の昭和十五年は驚く程ルーズであった）。配属将校は阿部大佐、配属軍官松井上校、他に井出口少佐という手塚院長と陸士同期の人のいいお爺さんがいた。<br /><br />　入学した年、哈爾浜西南方の香坊までの野外演習があった。演習の課目とか途中何があったか全然今の記憶にない。空砲五発貰ったので四、五人で三八銃の先に赤カブを刺し込んで空砲を発射し、その赤カブが何メートル飛んだか競争した事しか覚えていない。<br /><br />哈爾浜開拓義勇軍高等訓練所で晝食後、迎えに来た馬車に三八銃を投げ込んで、手ぶらでブラブラ勝手に掃ったのには驚いた。<br /><br />　もう一つは白井長助教授の歴史の試験場にノートでも何でも持ち込み自由ということである。これにも驚いた。<br /><br />　この先生、教課目が民族撃とか歴史理論とかに変わっても、卒業する最後まで日本史を教えていたように思う。丸刈りの鉢の大きな頭、強度の近眼鏡の奥に光るヤブにらみのどこを見ているのか解らない眼、反軍的（反院長的といってもいいでしようか）な言動にかかわらず確固たる日本的(右派的)な信念を持っていた。<br /><br />　鉢の大きな頭は親譲りらしい。鈴木淳栄がポームニムに書いている「新京脱出行」に出て来る第二航空軍特殊情報部（中村博一、福岡健一、瑠璃垣馨、城所尚爾、鈴木淳栄、成瀬孫仁、の六人が居たソヴィエート航空部隊の暗号解読部隊。同級生が六名も集まった部隊は珍しい。この外に数名の先輩が居られた）高級部員の小原豊中佐から先に私信を頂いた。<br /><br />小原中佐は露西亜語は堪能で満州でずっと対′ソ情報に関係された権威である。「大尉時代旅順の要塞司令官だった白井二郎中将（白井長助先生の父君）に二年間お仕えしたことがあるが、頭の鉢の大きい人だった」と書いておられた。やはり親譲りである。<br /><br />　白井さんはなかなか油断の出来ない方で（この言い方は失礼だと思うが、悪い意味でないので御勘弁願いたい）、平気で事実でないこと、正しくないことなどを口にした。<br /><br />さすがに学院の正式授業の時は言わなかったが、北方亜細亜研究会ではたびたびこうした問題発言にぶつかった。調べていると、先生が言われたことと反対のこと、またその事実がなく他の事実が現れて来るのである。<br /><br />　それを白井さんに告げると「良く研究した。お前たちはもう中学生ではないのだから、人が言っていることが正しいことか、正しくないことか、事実であるのか、事実でないのか自分で研究して判断していかなければならない。しかしよく解った。これからも注意せよ。」と。偉いものだ、顔の表情一つ変えないで言ってのけた。<br /><br />　すると白井さんが言ったこと、教えたこと、すべてが半分か、三分の一か、正しくない、事実でないことがあるのか、今となっては全く関係のないことだと思っている。<br /><br />　ところで「ポームニム２１」の試刷りに書いた白井さんの父君白井二郎少佐のことが気になって来た。これは白井さんに当時聞いたままのことであるが、確かめようもない。四十数年前の亡霊に悩まされて心は揺れ動くのである。渋谷院長は終戦時、ご家族とともに自決された。白井さんも岸谷隆一郎先輩も皆死を家族と共にされている。<br /><br />　いずれも御夫人、子供を殺して最後に自決している。人にはそれぞれの主義、思想、立場があり、複雑なものであることは理解出来る。<br /><br />　私は八月十五日の終戦を斉々哈爾で迎えた。その時、妹が新京に居たので電話を掛けたが、戦争の混乱で通じない。悪いことだが、私は部隊の作戦用の電話で新京の本部を呼び出し、かねて知っている交換手に頼んで市外の妹の所につないでもらった。<br />b私は「兄さんは斉々哈爾で死ぬから、お前帰ったらお母さんにそのとおり伝えてくれ」と言うと、恐ろしく元気な声で「帰ったらその通り伝えてあげる」と言った。<br /><br />　院長も、白井さんも、岩谷先輩も死ぬのなら自分だけ死ねばいいので、何で御夫人、子供さんを供にしなければならないのか。私にうちのばあさんが「貴方が死ぬ時一緒に死にたい」と云う。あまり出来すぎているから話三分の一にしても嬉しい。<br /><br />　妻が夫に、子供が父に一緒に死のうと言われた時、あの一九四五年八月の終戦時の国際的状況、社会事情、これに伴う人間の心の混乱を思えば拒否出来なかったのではないか。子供に至っては拒否の方法手段すら解らなかったはずである。<br /><br />　院長、白井さん、岸谷先輩とも夫人、子供さんたちを供にすることなく一人で死ぬべきであったのではないか。明治の美学のためにあたら妻子の命を奪った感なきにしもあらず。<br />と考えるのは、心得違いということだろうか。<br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-10-26T12:13:47+09:00</dc:date>
              <dc:creator>あんみつ姫</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=827&amp;post_id=3599#forumpost3599">
    <title>Re: 昭和十六年一月一日〜五月三十一日</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=827&amp;post_id=3599#forumpost3599</link>
          <description> 支那派遣軍の中原作戦終る 五月二十六日(月) 曇後雨 涼 講道館長南郷少将来り哈鉄にて講演あり。 アルコオル中毒患者の様な話で面白くなく眠ってしまった。 五月二十七日(火) 暖 朝校庭に集合。哈爾浜神社での海軍記念日式典に参加。後市内行進。モストワヤ街で石 ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[<b>支那派遣軍の中原作戦終る</b><br /><br /><b>　五月二十六日(月)　</b>曇後雨　涼<br />　講道館長南郷少将来り哈鉄にて講演あり。　アルコオル中毒患者の様な話で面白くなく眠ってしまった。<br /><br /><b>　五月二十七日(火)　</b>暖<br />　朝校庭に集合。哈爾浜神社での海軍記念日式典に参加。後市内行進。モストワヤ街で石黒部隊長に分列行進。<br /><br />スンガリーで敵前上陸演習見学。船外機を付けた小形の鉄舟が煙幕を張りに猛スピードで飛ばす。後を大きな鉄舟ゆるいスピードで進んで来ている。私の見た所上陸部隊は全滅だ。<br /><br /><b>　五月二十八日(水)　</b>晴　暖<br />　野球、綱引の学年対抗試合あり。何れも見事に負ける。<br />　植物園へ行き往来の人を眺める。ベンチに横になって空を見る。<br />淋しいのか、女が欲しいのか、酒が飲みたいのか、雲は悠々と流れ白樺の葉はサラサラと音を立てている。その音が更に孤獨感を誘う。<br /><br /><b>　五月三十日(金)　</b>晴　暖<br />　朝登校途中軍隊の隊列を横ぎって将校に怒鳴られた。馬鹿め偉張ってやがる。<br /><br />　新聞によると北海で英巡洋戦艦フツドを砲撃開始以来五分間で砲弾を火薬庫にぶち込んで撃沈させた獨戦艦ビルマスクは英海軍の戦艦プリンスオブウエールスと航空母艦の飛行機の攻撃で遂に撃沈きれたと。<br /><br />　晝から忠霊塔参拝。此の大祭に満人の高足踊が出た。始めて見る。<br /><br /><b>　五月三十一日(土)　</b>晴後雨　涼<br />　朝から雨、少し晴れて又雨、又晴れて雨。<br />晝まで寮で寝ていた。学校へ出ずに寮で寝ている者多く晝飯ありつけない。学校へ出て行く。今日は土曜日で晝から授業はない。良く考えるとすべて理に合わない。<br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-10-24T11:58:49+09:00</dc:date>
              <dc:creator>あんみつ姫</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=826&amp;post_id=3579#forumpost3579">
    <title>玉砕戦に生きた兵士     ( 倉田 洋二 ）・３</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=826&amp;post_id=3579#forumpost3579</link>
          <description> 戦後、海洋生物学を学ぶ 東京都水産試験場の職員として働き始め、出張ということで東京深川の水産講習所で堀重蔵、妹尾秀頼教授、他の学生に混じって数々の講座を受講した。新宿の資源科学研究所で岡田彌一郎博士等。パラオの熱帯生物研究所の研究員であつた阿部宗 ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[<br />　戦後、海洋生物学を学ぶ<br /><br />　東京都水産試験場の職員として働き始め、出張ということで東京深川の水産講習所で堀重蔵、妹尾秀頼教授、他の学生に混じって数々の講座を受講した。新宿の資源科学研究所で岡田彌一郎博士等。パラオの熱帯生物研究所の研究員であつた阿部宗明、江口元起博士他、パラオに居た加藤源治先生等からも個人的に色々ご教示いただいた。岡田彌一郎博士の戦前パラオのタイマイ（亀）の研究は特に私の注意を引いた。<br /><br /><br />　品川、お台場でマガキ養殖<br /><br />　堀教授からの教示により品川台場でのマガキの採苗試験に松本技師と取組み成功した。<br />　その時に浦島橋で見たアカウミガメに興味を引かれたのを発端に東京湾、伊豆七島、小笠原のアオウミガメに目を付けた。岡田教授の指導でもある。<br /><br />　伊豆大島、小笠原に海亀を追って<br /><br />　日本沿岸のアオウミガメは小笠原から来遊すると推定し、岡田教授の指導の下で研究を続けた。世界にさきがけた小笠原のカメの人工孵化は明治時代に島庁長官の小花作助により開始され惜しくも第二次大戦で中断していたのを小笠原返還後私は復活させた。<br /><br /><br />　米国のP・O・Wとなった日本の一兵士、三十年後に米国へ<br /><br />　国際ウミガメ会議が米国で開催され、私は外務省より日本代表とし出席する為、バンクーバー経由でワシントン、ケネディ空港へ向った。会場となった国務省で小笠原のアオウミガメの放流成果を発表し、世界にさきがけた人工孵化の再開は注目を浴びた。　<br />　ゼロ戦乗りであつた東京大学の鯨博士こと西脇教授にほめられたのも嬉しかった。パラオ諸島アンガウル島で米国捕虜となった一兵士が三十年後に米国国務省の講堂で講演をするなど夢にも考えなかった事であつた。生きていて良かつた。<br /><br /><br />　再びアンガウル島に暮らす<br /><br />　私の海産爬虫類の研究はアオウミガメからタイマイも含め、やがて比国の絶滅危惧種ミンドロワニに及んだ。比国パラワン島に国立ワニ研究所をJICAで建設しミンドロワニ・イリエワニの研究を開始、今も継続している。そして今、パラオのタイマイ・イリエワニの研究を継続し、再び玉砕島アンガウル島に暮らしている。<br /><br />　（２００３年４月）　<br /><br />　ー完ー<br /><br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-10-07T08:17:02+09:00</dc:date>
              <dc:creator>kousei3</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=8&amp;topic_id=825&amp;post_id=3568#forumpost3568">
    <title>種痘証明書</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=8&amp;topic_id=825&amp;post_id=3568#forumpost3568</link>
          <description> これは長兄の種痘証明書です。年号が昭和に代わった直後で印刷が間に合わず訂正印が押してあります。 １９０６年の「種痘法」によって全国民は、種痘を義務付けられていました。廃止されたのは１９７６年です。 幼時に一回目、二回目が小学生のときのようです。 私 ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[　これは長兄の種痘証明書です。年号が昭和に代わった直後で印刷が間に合わず訂正印が押してあります。<br /><br />　１９０６年の「種痘法」によって全国民は、種痘を義務付けられていました。廃止されたのは１９７６年です。<br />　幼時に一回目、二回目が小学生のときのようです。<br /><br />　私の記憶に残っているのは、小学校で校医さんが、二の腕にメスで傷をつけ、菌を植え付けるという方法で実施してくださった風景です。<br /><br />　この跡は、成人した後も残りました。<br />　跡の数は古い時代ほど多く、これを見られて年齢がばれたーーーという話も聞いたことがあります。<br /><br /><a href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/photos/842.jpg" target="_blank"><img src="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/thumbs/842.jpg" align="left" alt="" /></a><br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-09-24T14:23:06+09:00</dc:date>
              <dc:creator>マーチャン</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=819&amp;post_id=3547#forumpost3547">
    <title>戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・５９  （林ひろたけ）</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=819&amp;post_id=3547#forumpost3547</link>
          <description> 第六章 戦争はもういやだよ・３ 「今朝早朝、北鮮軍は南北鮮境界線である三八度線にそった開城、春川付近と東部海岸地区において北鮮軍と韓国軍ととの間に戦闘が開始された。韓国政府は同日北鮮との間に全面的内戦が発生したと公表したが、同日朝、北鮮側平壌放送 ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[<br />　第六章 戦争はもういやだよ・３<br /><br />　「今朝早朝、北鮮軍は南北鮮境界線である三八度線にそった開城、春川付近と東部海岸地区において北鮮軍と韓国軍ととの間に戦闘が開始された。韓国政府は同日北鮮との間に全面的内戦が発生したと公表したが、同日朝、北鮮側平壌放送は韓国軍たいして正式に宣戦を布告した」。「北鮮軍は戦車を先頭に激しく攻勢をつづけており、先頭部隊は京城に肉薄し、京城に危機が迫っている模様」。当時のラジオニュースは、北朝鮮のことを北鮮といい、ソウルのことを京城と植民地時代の用語をそのまま使い報じていた。北朝鮮が三八度線全線で戦車を先頭に南朝鮮へ攻勢をかけており、また日本海海岸では艦船による攻撃も始まっていることも報じた。開城では、甕津（おうつ）　半島ではとか、議政府ではとか朝鮮で聞き慣れていた地名が次ぎつぎに出てきた。そこでは戦車戦が繰り返しおこなわれ、つぎつぎに北朝鮮軍の占領地域が広がっていることを伝えていた。「のど自慢」どころではなかった。集まっていた家族はそのニュースに釘づけになった。<br />　「朝鮮で戦争がはじまった」。洋武は身震いがした。つぎの瞬間、三八度線をこえた戦車が、そのまま蓼科山の雲間をぬって、列をつくって殺到してくるかのような錯覚に陥っていた。それは順安で見たソ連軍の戦車の行列だった。洋武はまだ手も顔も洗わず泥だらけで土間に立っていた。<br />　「いやだよ。もう戦争はいやだよ」。体を二つに折ってラジオにむかって叫ぶととともに声は泣き声にかわっていった。そしてわんわん泣きだしていた。自分の肌がどんな戦争も受けつけなかった。「この子ったら。中学生にもなるのに。泣くなって」　ハナはそういいながらラジオの音を大きくし、「そう戦争はもういや。どこの国でもどんな理由でも戦争はもういや」と相づちをうった。<br />　九年前、真珠湾攻撃にわいた林家の姿とはまったくちがって、凍り付いたような雰囲気がラジオのまわりにひろがった。おそらくそれは日本中の国民がうけた衝撃でもあった。昭和二五年（一九五〇年）六月二五目の日曜日の正午のことだった。<br /><br />　以　上<br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-09-07T09:19:26+09:00</dc:date>
              <dc:creator>kousei3</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=822&amp;post_id=3545#forumpost3545">
    <title>Re: 日本回復期の記憶１</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=822&amp;post_id=3545#forumpost3545</link>
          <description>(インチサイズ) ハードディスクの取り付けネジはISOネジでなくインチネジです。 これを見ると思い出すことを。 ４０年前の技術導入時、日本はメートル法でしたが導入元はヤードポンド法のところが大多数でした。 図面も実物もネジ程度ですとたいしたことはないので ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[(インチサイズ)<br />ハードディスクの取り付けネジはISOネジでなくインチネジです。<br />これを見ると思い出すことを。<br />４０年前の技術導入時、日本はメートル法でしたが導入元はヤードポンド法のところが大多数でした。<br />図面も実物もネジ程度ですとたいしたことはないのですが、1.5メートルで50ミクロン程度の精度が必要なものは換算係数も6桁程度は必要ですし、有効数字をどこまでにするか等々手間がかかりました。<br />早く自前の度量衡で仕事をしたいと強く思ったものです。<br />（規格）<br />電動機の規格ですが４５年くらい前は、NEMA、BS、DIN、そして日本がJEM（後のJIS）と入り乱れてました。<br />日本の規格は同出力でも図体が大きかったです。<br />技術導入したものは現実の取替え、図面の引きなおし共に、シャフト（軸）の高さが高いものは台を削ることができないものもありさらに入れる空間が狭く入らない場合どうしようもなく苦労しました。<br />冷却を強化したり、材料を変更して特注の電動機を作ってもらったこともあります。なぜだと電動機の設計屋に聞くと次のような答えでした。<br />お客さんの余裕についての考え方、設計技術、材料の性能とばらつき、が答えと記憶しています。<br />早く技術が向上し規格も統一してほしいと願ったものです。<br />今は規格もISOに統一されていますし、日本のほうが同出力でも小型に作れるようです。<br />kozaru<br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-09-04T15:11:50+09:00</dc:date>
              <dc:creator>kozaru</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=821&amp;post_id=3536#forumpost3536">
    <title>小学校２年生の文集・１９３３年・続き</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=821&amp;post_id=3536#forumpost3536</link>
          <description> 日記のなかから 井 出 ○ 子 もうせんから常なりさんがおびやうきになって、今日またおびやうきですからおかあさまのおちちがはれたら、私がのんですてました。 今日はがくかうからかへってすこしあとにお兄さんのおともだちのさざひこさんがおうちへきたから、お兄 ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[<a href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/photos/838.jpg" target="_blank"><img src="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/thumbs/838.jpg" align="left" alt="" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />日記のなかから<br /><br />　　井　出　　○　子<br /><br />もうせんから常なりさんがおびやうきになって、今日またおびやうきですからおかあさまのおちちがはれたら、私がのんですてました。<br />今日はがくかうからかへってすこしあとにお兄さんのおともだちのさざひこさんがおうちへきたから、お兄さんと私で出て来ました。それから私がさざひこさんにとらんぷをしようと言いました。さうしたらてるを兄さんとおはなしをしてゐました。それから私とてるを兄さんとさざひこさんだけで行かうとしたら、おぎくぼの伯母さんが駅まで連れて行ってちょうだいといったから駅までごいつしょに行きましたらアーケードでちょつとおかひものをしたので私とてるをにいさんとさざひこさんだけでローラースケートをしてかへりました。<br /><br />　十二月二十一日　水<br /><br /><a href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/photos/839.jpg" target="_blank"><img src="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/thumbs/839.jpg" align="left" alt="" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />中　村　○　彦<br /><br />もうせん僕が學校からかへったら、家の前に大ぜいのへいたいさんが、一、二、とばんがうをいってゐました。<br />そして馬にのった大しゃうがたきぎをとってこいとめいれいをしました。<br />そして一人のへいたいさんが、すこっぷで家のはらっぱをほって、なにをするのかとおもつたら、お寺の井（ゐど）のところでお米をといで、火がもえるところにぼうをとほして、おべんたうをたべていました。<br />夕方へいたいさんは、ならんでかへりました。へいたいさんがかへるころ、かもつ自どう車が　こしやうで　ささのところに　のりこみました。<br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-08-28T07:33:16+09:00</dc:date>
              <dc:creator>マーチャン</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=820&amp;post_id=3534#forumpost3534">
    <title>上海の病院・叔父のスケッチから</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=820&amp;post_id=3534#forumpost3534</link>
          <description> 当時から絵が好きだった叔父（父の弟）が送ってくれたスケッチです。 １９３７年１２月。上海にてーーーとあります。 叔父は、二度目の応召で、日中戦争が上海に拡大した年に、上海におりました。 そこで病気になり、どういう事情からか、フランス人の経営する「赤 ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[<br />　当時から絵が好きだった叔父（父の弟）が送ってくれたスケッチです。<br />　１９３７年１２月。上海にてーーーとあります。<br />　叔父は、二度目の応召で、日中戦争が上海に拡大した年に、上海におりました。<br />　そこで病気になり、どういう事情からか、フランス人の経営する「赤十字病院」に入院しました。叔父からは「赤十字病院」と聞いていましたが、写真の説明には「Sacred Heart Hospital」とあります。<br />　しかし、ほかにも日本兵が入院していたようですし、将校などでない兵士がどうしてこんなところへ入院することになったのか不思議です。<br /><br /><a href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/photos/827.jpg" target="_blank"><img src="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/thumbs/827.jpg" align="left" alt="" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><a href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/photos/828.jpg" target="_blank"><img src="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/thumbs/828.jpg" align="left" alt="" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><a href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/photos/829.jpg" target="_blank"><img src="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/thumbs/829.jpg" align="left" alt="" /></a>]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-08-26T07:39:38+09:00</dc:date>
              <dc:creator>マーチャン</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=818&amp;post_id=3482#forumpost3482">
    <title>稚内市 「九人の乙女の碑」</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=818&amp;post_id=3482#forumpost3482</link>
          <description> スカッパーさんより、テキスト化した碑文とともに、碑の写真をお送りいただきました。 2005年7月にご友人と北海道稚内から礼文島にご旅行されたときに稚内港の側の高台でご覧になった 樺太での 悲劇の碑が忘れられず 残しておられたそうです。 メロウ伝承館 スタッ ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[　スカッパーさんより、テキスト化した碑文とともに、碑の写真をお送りいただきました。<br />　<br />　2005年7月にご友人と北海道稚内から礼文島にご旅行されたときに稚内港の側の高台でご覧になった　樺太での　悲劇の碑が忘れられず　残しておられたそうです。<br /><br />　メロウ伝承館　スタッフ<br /><br />-------------------------------------<br /><br />碑文<br /><br />戦いは　終わった　それから五日　昭和二十年八月ニ十日ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした　その時突如日本軍との戦いが　始まった　戦火と化した真岡の町　その中で交換台にあった九人の乙女等は　死を以って己の職場を守った　窓越しに見える砲弾さく烈　刻々迫る身の危険　今はこれまでと死の交換台に向い　「皆さん　これが　最後です　さようなら　さようなら」の言葉を残して静かに青酸カリを飲み　夢多き若き花の命を絶ち職に殉じた<br />戦争は再びくりかえすまじ　平和の祈りを込めて尊き九人の乙女の霊を慰む<br />　昭和三十八年八月十五日<br /><br />　　　　　　　　　　稚内市長　　　　　浜　森　辰　雄<br />　　　　　　　　　　　　寄贈　　　<br />　　　　　　　　　　　　　東京都　　　本　島　新<br />　　　　　　　　　　　　　札幌市　　　上田　伶子<br /><br /><a href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/photos/825.jpg" target="_blank"><img src="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/thumbs/825.jpg" align="left" alt="" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><a href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/photos/826.jpg" target="_blank"><img src="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/thumbs/826.jpg" align="left" alt="" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /> 殉職なさった九人は下記の方々です。<br /><br />　高石ミキ（24）<br />　可香谷シゲ（23）<br />　吉田八重子（21）<br />　志賀晴代（22）<br />　渡辺照（17）<br />　高城淑子（19）<br />　松橋みどり（17）<br />　伊藤千枝（22）<br />　沢田キミ（18）<br /><br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-07-04T08:15:35+09:00</dc:date>
              <dc:creator>kousei3</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=817&amp;post_id=3481#forumpost3481">
    <title>札幌護国神社・彰徳苑の碑より・第二十六聯隊旗奉焼</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=817&amp;post_id=3481#forumpost3481</link>
          <description> 歩兵第二十六聯隊旗奉焼 《ほうしょう》 之碑 建 立 昭和六十一年（一九八六） 九月十四日 建立者 歩兵二十六会 旭川歩兵第二十六聯隊は、明治三十二年（一八九九）十一月二十五日、札幌月寒 《つきさっぷ》 において創立され、明治三十三年十一月十五日、旭川第七 ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[ <br />　歩兵第二十六聯隊旗奉焼<span style="color: #cc9900;">《ほうしょう》</span>之碑<br /><br />　建　立　昭和六十一年（一九八六）　九月十四日<br /><br />　建立者　歩兵二十六会<br /><br />　旭川歩兵第二十六聯隊は、明治三十二年（一八九九）十一月二十五日、札幌月寒<span style="color: #cc9900;">《つきさっぷ》</span>において創立され、明治三十三年十一月十五日、旭川第七師団創設に伴い、聯隊本部が開庁し、月寒より移転した。<br />　明治三十三年十二月二十二日宮中に於いて軍旗を親授<span style="color: #cc9900;">《しんじゅ＝天皇より賜り》</span>し、同年二十六日旭川練兵場に於いて聯陽に旗が授典<span style="color: #cc9900;">《じゅうてん＝大切に渡され》</span>された。<br />　明治三十六年（一九〇三）十月二十五日、清國守備隊要員として聯隊から一個中隊が山海関に派遣。明治三十七年の日露戦役では乃木大将率いる第三軍の予備隊となり、松樹山攻撃に参加、二〇三高地及び赤坂山の戦闘は壮絶を極め、聯隊長吉田新作中佐は壮烈なる戦死を遂げ、将枚以下生存わずか六名という激戦であった。<br />　歩兵第二十六聯隊歴史の特記すべき戦いは、昭和十四年（一九三九）勃発<span style="color: #cc9900;">《ぼっぱつ＝突然発生》</span>したノモンハン事件である。聯隊長須見新一郎大佐率いる歩兵第二十六聯隊は、ハイラル駐屯の第二十三師団（師団長小松原道太郎中将）の隷下<span style="color: #cc9900;">《れいか＝配下》</span>に編入きれ、ハイラルから将軍廟までの二百十六キロ、それも炎天下の大平原を完全武装にて六日間で突破し、ハルハ河・ホルステン河を渡河し、ソ連と壮烈なる死闘が繰り返されたのである。<br />　第二十三師団が壊滅的打撃を受け、各部隊が全滅するなか、歩兵第二十六聯隊は、相当数の被害を受けつつもフイ高地を死守したのである。後に歩兵第二十六聯隊はもっとも長い期間戦い、大きな損害を出し「悲劇の須見部隊」と呼ばれたのである。<br />　大東亜戦争では、千島防衛強化のため北千島幌延島に上陸し防衛を担当していたが、昭和十九年、第七十七師団と交代、北海道東地区防衛のため本道に帰還し帯広に駐屯、昭和二十年八月十七日、ソ連軍が樺太に侵攻してきたため、第五方面軍の極秘至急電により歩兵第二十六聯隊は札幌月寒に移駐、九月十日、月寒神社境内林間において軍旗奉焼<span style="color: #cc9900;">《ほうしょう＝恭しく焼く）》</span>し聯隊の歴史の幕を閉じたのであった。<br />　爾来<span style="color: #cc9900;">《じらい＝それから》</span>四十一年、聯隊に縁りある者相集い、軍旗の武勲と栄誉を永く後世に伝え、これを顕彰するために、この碑を建立したのである。<br /><br /><a href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/photos/823.jpg" target="_blank"><img src="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/thumbs/823.jpg" align="left" alt="" /></a>]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-07-03T07:24:05+09:00</dc:date>
              <dc:creator>kousei3</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=816&amp;post_id=3474#forumpost3474">
    <title>歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・編注</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=816&amp;post_id=3474#forumpost3474</link>
          <description>編注 ? NPO法人日本パラオ協会では、昨平成19年3月24日から6月17日まで、靖国神社遊就館 《ゆうしゅうかん》 1階企画展示室において、「戦跡パラオ展−パラオに散った英霊たちー」（パラオの歴史と英霊展）という特別展を開催し、多くの参観者達に深い感銘を与えたの ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[編注<br /><br />?　NPO法人日本パラオ協会では、昨平成19年3月24日から6月17日まで、靖国神社遊就館<span style="color: #cc9900;">《ゆうしゅうかん》</span>1階企画展示室において、「戦跡パラオ展−パラオに散った英霊たちー」（パラオの歴史と英霊展）という特別展を開催し、多くの参観者達に深い感銘を与えたのであるが、パラオ共和国のトミー・E・レメンゲサウJr大統領は次のような同展に対する挨拶文を寄せておられる。「この度は、靖国神社及びNPO法人日本パラオ協会他関係の皆様方の御尽力により、「パラオの歴史と英霊展」が靖囲神社の境内にて開催される運びとなりましたことは、パラオ共和国として誠に喜ばしいことであり、厚く御礼申し上げます。<br />　一九二〇年、日本はミクロネシア地域の統治を国際連盟により委任され、その行政本部をパラオに置きました。それからの二十五年間、日本はパラオに産業技術と教育制度をもたらし、パラオの文化発展に寄与されました。一方で、第二次世界大戦以前よりパラオには日本軍が常駐し、このために一九四四年〜一九四五年にパラオも戦場になりました。今もパラオには、多くの日本兵が静かに眠っています。<br />　第二次世界大戦後、パラオは一九九四年十月の独立までの間、アメリカ合衆国による国際連合の信託統治<span style="color: #cc9900;">《しんたくとうち》</span>下に置かれました。それまでの日本の産業は失われましたが、今も日本の言葉や文化がパラオ文化の一部として残っています。<br />　このように、光と影の両面があったパラオと日本の関係ですが、両国の長く深い関係は非常に重要なことと考えており、この友好関係が今後も長く続くことを厳っております。<br />　この展示会を通じて、日本の多くの人達がパラオのことをお知りになり、是非パラオにお越し下さいますよう、希望いたします。」<br /><br />?　パラオで今も愛唱される歌―――昭和十九年九月十五日に米軍がペリリユー島に上陸して以来、二カ月余にわたる日本将兵の死闘に思いを馳<span style="color: #cc9900;">《は》</span>せるため、パラオでは日本の国花「桜」に慰霊鎮魂<span style="color: #cc9900;">《いれいちんこん》</span>の誠を託して「ペ島の桜を諾える歌」を作った。この曲は一番から八番までの構成で、今でも島民に愛唱されている代表作でもある。また、この曲のほかに日本でもよく知られている歌に「酋長の娘」「パラオ恋しや」などがあり、日本とパラオ両国民の心の交流を示している。<br /><br />　「ペ島の桜を琴える歌」<br />　　　　作詞　オキヤマ・トヨミ<br />　　　　　　　ジョージ・シゲオ<br />　　　　作曲　トンミー・ウェンティ<br /><br />一　激しく弾雨が　　　　　　　　降り注ぎ<br />　　 オレンジ浜を　　　　　　　　血で染めた<br />　　 強兵（つわもの）たちは　　　皆散って<br />　　 ペ島（しま）は総て　　　　　墓となる<br /><br />二　小さな異国の　　　　　　　　この島を<br />　　 死んでも守ると　　　　　　　誓いつつ<br />　　 山なす敵を　　　　　　　　　迎え撃ち<br />　　 弾（たま）射（う）ち尽くし　食糧（しょく）もない<br /><br />四　日本の桜は　　　　　　　　　春いちど<br />　　 見事に咲いて　　　　　　　　明日は散る<br />　　 ペ島の桜は　　　　　　　　　散り散りに<br />　　 玉砕（ち）れども武勲は　　　永久（とこしえ）に<br /><br />八　戦友遺族の　　　　　　　　　皆さまに<br />　　 永遠（いついつ）までも　　　かわりなく<br />　　 必ず我等は　　　　　　　　　待ち望む<br />　　 桜とともに　　　　　　　　　　皆さまを<br /><br />?　米太平洋艦隊司令長官：ミッツ元帥は、自著『太平洋海戦史』の中で、ペリリユー戦について「ペリリユーの複雑極まる防備に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率（約40％）を甘受しなければならなかった。既に制海権、制空権を持っていた米軍が、死傷者合わせて一万人を超える犠牲者を出してこの島を占領したことは、今もって疑問である」と書いでおり、現在ペリリユー神社境内にある詩碑には「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るために日本軍人が、いかに勇敢な愛国心を持って戦い、そしで玉砕<span style="color: #cc9900;">《ぎょくさい》</span>したかを伝えられよ」太平洋艦隊司令長官C．W．こミッツ、と刻まれている。<br /><br />（写真・上段　平和の礎（コロール島）　下段　５９ｉ連隊旗）<br /><br /><a href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/photos/817.jpg" target="_blank"><img src="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/thumbs/817.jpg" align="left" alt="" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><a href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/photos/816.jpg" target="_blank"><img src="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/thumbs/816.jpg" align="left" alt="" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />　−完−<br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-06-26T08:42:30+09:00</dc:date>
              <dc:creator>kousei3</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=808&amp;post_id=3467#forumpost3467">
    <title>昭和の絵手紙 あとがき</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=808&amp;post_id=3467#forumpost3467</link>
          <description> ―――あとがき――― 若い時この地半田で、地震又は空襲で学徒を中心とした多くの人々がお亡くなりになりました。あの目あの時の様を忘れてはならじと、数年前初めて鎮魂の思いを込めて描いた絵手紙が、江川の堤で友のなきがらを次々と戸板で運ぶ女子挺身隊の姿です。沢 ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[<br />　―――あとがき―――<br /><br />　若い時この地半田で、地震又は空襲で学徒を中心とした多くの人々がお亡くなりになりました。あの目あの時の様を忘れてはならじと、数年前初めて鎮魂の思いを込めて描いた絵手紙が、江川の堤で友のなきがらを次々と戸板で運ぶ女子挺身隊の姿です。沢山の若い命がここで絶たれました。（昭和19年12月7日）<br />　内地、外地の戦争で、原子爆弾で、多くの犠牲者が出ました。時が移り世代も代わり、この様なことが風化しようとしております。昭和初期以降戦後までの時代と現在の豊かな時代とは余りにも断層が大きく思われます。<br />　自ら体験したこと、人様からお聞きした出来事を、心のファインダーに写った一駒ひとこまの絵手紙として描きました。せめて御霊への慰めと、再びこの様なことが起こらないように、次の世代への語りつぐべきお話として、ご高覧頂ければ望外の幸せでございます。<br />　皆々様のご健康とご多幸をお祈りし、今日あることを感謝して<br /><br />　間瀬　時江<br /><br /><br />　作者略歴<br /><br />　1923年　　愛知県半田市乙川に生まれる。<br />　1940年　　愛知県立半田高等女学校卒業<br />　1943年　　中島飛行機製作所半田工場に勤務<br />　1944年　　12月7日　東南海地震<br />　1945年　　7月24日半田空襲<br />　1948年　　結婚し半田市亀崎に居住<br />　1982年　　小西美代子（創画会）に師事<br />　1989年　　松井和弘（創画会）に師事<br />　1995年　　星野哲弘（創商会）に師事現在に至る<br />　1998年　　半田市民展　奨励賞<br />　1999年　　半田市民層　市長賞<br />　2000年　　文化協会賞<br />　2002年　　半田市民展　市長賞<br /><br />　−−−完−−−<br /><br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-06-16T07:38:12+09:00</dc:date>
              <dc:creator>kousei3</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=813&amp;post_id=3462#forumpost3462">
    <title>Re: 東京の小学生が見た「ニ、ニ六事件」・最終回 大正生まれの Ｙ</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=813&amp;post_id=3462#forumpost3462</link>
          <description> ３月になって （３）父は夕刊を母や私、ねえやさんに声を出して読んで聞かせた。 （４）その後で、父が云った。「今までのクーデターと同じ事で天皇をお味方に頂いて先ず内閣の設計図を作り、首班を決めて青年将校が４−５名で首班候補の私邸に行き、本人の就任確約 ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[<br />　３月になって<br /><br />　（３）父は夕刊を母や私、ねえやさんに声を出して読んで聞かせた。<br /><br />　（４）その後で、父が云った。「今までのクーデターと同じ事で天皇をお味方に頂いて先ず内閣の設計図を作り、首班を決めて青年将校が４−５名で首班候補の私邸に行き、本人の就任確約と主要ポストにつくべき要人方の確約をもらう。この手順を踏まずして事件を起こす将校など居るものか。然も首都を守る第一師団の第一連隊と第三連隊の士官であれば大尉で３０歳、小、中尉で２４−５歳とはいえその辺の分別は充分にある筈だ。結局年寄りに騙されたわけだ。いつもこれだ」<br /><br />　　　一言で言えば「騙されたのは兵ではなき、若手将校が老獪な将軍どもに騙された」ということのようだ。<br /><br />　（５）この事件の首謀者といわれている安藤輝三大尉について、Ｍ学園のクラスメイトの間でも議論が沸騰した。（この学校は創立大正13年。大正デモクラシーの落とし子とも云われている。『個性尊重・自主自立・自由平等』を教育理念として掲げていたので、父兄のなかには、新聞記者、大学教授、外交官、大手商社の重役、陸軍の高官ありで、家庭で、いわゆる「事件の裏話」に接する機会が多かったようだ。）<br /><br />　　　クラスメイトの話を総合すると、安藤輝三大尉は<br />　　　・ 中尉のころから陸軍大学に推薦されるような逸材であった。<br />　　　・ しかし、大学には関心を示さず、政治経済を熱心に勉強し、大物政治家の門を叩いたりしていた。<br />　　　・ 部下から非常に慕われており、いろいろ相談を持ちかけられていた。<br />　　　・ そして、常日頃、部下の兵士から農村の疲弊について聞かされていた。<br />　　　・ 将官を私邸に訪ね、兵士の実家の実情を説明して、「地方財政の改革に手を打つべき」との心中を吐露していた。<br />　　　・ その一途な気持ちを、その将官に利用されてしまった。<br /><br />　　　―――すなわち、私邸を訪ねてきた彼に<br />　　　将軍は、待っていましたとばかり自宅の客間で青年将校と抱き合い、酒を酌み交わし｢頼りになるのは貴様、安藤！貴様しか居らぬのだ。同士を集めよ。○○大佐とよく相談するように。××少将とは来週会合があるので貴様の話を充分説明し、承知してもらう所存なのでーーー｣と、連絡をとるべき将官の名前・時期などを述べた。さらに「特に首班になって頂く方のご承諾については、よくよく閣下方のご意見を拝聴するように」などと話したようだ。<br />　高価な土産を与え、帰るときはタクシーを呼んでやった。<br />　最後に「○○閣下とのつながりだけは例え計画が失敗し拷問にあってもいうなよ、云えば貴様を射殺し、俺も死ぬ」と釘を刺したーーーという話もあるようだ。<br />―――とのことである。<br /><br />　　　しかし、結局、この青年将校のみが死刑になり、将軍やその参謀の、大佐、中佐は満州や北支への出征（左遷）だけで済むのである。<br /><br />―　完　―<br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-06-15T08:36:24+09:00</dc:date>
              <dc:creator>kousei3</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=815&amp;post_id=3459#forumpost3459">
    <title>『ねえやさん』の思い出 大正１４年生まれのＹ</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=815&amp;post_id=3459#forumpost3459</link>
          <description> どこの家でもと云うわけではないが、当時の阿佐ヶ谷（東京都杉並区)では、子供の足で徒歩15分以内の地域では大抵、女中さんがいて、『ねえやさん』と呼ばれていた。私の家では、大伯父のところから下げ渡しがあり、私が5歳から16歳になるまでの間、『ねえやさん』 ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[　どこの家でもと云うわけではないが、当時の阿佐ヶ谷（東京都杉並区)では、子供の足で徒歩15分以内の地域では大抵、女中さんがいて、『ねえやさん』と呼ばれていた。私の家では、大伯父のところから下げ渡しがあり、私が5歳から16歳になるまでの間、『ねえやさん』がいたように思う。<br />　最初の方に縁談があり、辞めることになったが、引継ぎでその妹さんが上京したので、暫くの間、（たぶん一年くらいと思うが）我が家に『ねえやさん』が二人という贅沢<span style="color: #CC9900;">《ぜいたく》</span>な時代が出現した。成人してはじめて知ったことだが、『ねえやさん』というのは、家庭が貧しく、家で面倒が見切れないから来るのではなく、標準語を覚えるため、都会の生活を体験するため、料理を覚えるため、ミシンを使う「洋裁」を習うため、礼儀作法を身に付ける為、というのが目的だったようだ。<br />　行った先の家では、掃除洗濯、風呂焚<span style="color: #CC9900;">《た》</span>き、料理の手伝い、皿洗い、お使いなどをさせられた。その対価として、月々の給金をもらい、盆暮れにはボーナス代わりに和服の反物などを貰<span style="color: #CC9900;">《もら》</span>った。さらに、洋裁学校の夜学に通わせてもらったりもした。私は当時5歳から16歳くらいで、父は会社ではまだ主任程度の地位であったが、女中を雇うということは、別に贅沢なことではなく、大手企業で働くサラリーマンとしては、ごく普通のことであった。<br />　戦後一家は兵庫県に疎開<span style="color: #CC9900;">《そかい＝空襲の被害を避けて農村などに住まいを移す》</span>し、私一人が焼け残った東京に、一人暮らしを始めたが、まず困ったのは主食の米だった。そこで縁をたどって、新潟県直江津にある『ねえやさん』の実家を訪ねた。その時のいでたちだが、大型のリュックサックを背負い、手にはボストバッグを提げていたように思う。『ねえやさん』の実家はかなり辺鄙<span style="color: #CC9900;">《へんぴ＝片田舎》</span>なところで、直江津からバスで40分、更にそこから徒歩で30分と云うところだった。ところが着いて見てビックリした。堂々たる冠木門<span style="color: #CC9900;">《上方に冠木を渡した屋根のない門》</span>に丈の高い木の垣根に取り囲まれた、300坪以上はありそうな大邸宅だったのである。お初にお目にかかったお父さんに、丁重に挨拶<span style="color: #CC9900;">《あいさつ》</span>し、心ばかりの土産を渡し、四方山の話に時を忘れた。夕食には山海の珍味が並び、久しぶりに鱈腹<span style="color: #CC9900;">《たらふく》</span>飯が食えた。いよいよ就寝の時間になると、お父さんから『ねえやさん』に「お前、今夜は座敷で”、おぼっちゃま”と一緒に寝て差し上げなさい」という嬉しい言葉。その座敷は、なんと16畳もあり、床の間は勿論<span style="color: #CC9900;">《もちろん》</span>、大きな違い棚があり、押入れはと見ると、全部反対側に作られているのだった。布団に入ると、あり難いことに、足先に置炬燵<span style="color: #CC9900;">《おきこたつ＝やぐらの中に火を入れた小型のあんか》</span>が置かれていたが、その他にも部屋の奥に大きな火鉢まであり、私にはふつうの家と云<span style="color: #CC9900;">《い》</span>うより、高級旅館のように感じられた。一方自分はと見ると、終戦直後の昭和21年のことでもあり、背広もなく、着古しの国民服姿で、自分がみすぼらしく見え、大変恥ずかしかった。一晩泊めてもらい、翌朝8貫目（約30キログラム)の白米を頂き、帰路についたが、『ねえやさん』が、わざわざバス停まで送ってくれた。しかも近道を通ってくれたので、たった20分で着いた。生憎バスが遅れたので、それを利用して、20分位のあいだ、昔話に打ち興じた。あとで思ったことだが、自分は子供のころ、こんな豪農のお嬢さんを前にして「ねえや!!なんだよ、これは！」などと怒鳴りつけたりして、ほんとうに申し訳なかった、とつくづく思った。<br /><br /><br />　テキスト作成　Kazuo<br /><br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-06-13T08:17:45+09:00</dc:date>
              <dc:creator>kousei3</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=14&amp;topic_id=814&amp;post_id=3454#forumpost3454">
    <title>父から聞いた「関東大震災の思い出」 大正１４年生まれのＹ</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=14&amp;topic_id=814&amp;post_id=3454#forumpost3454</link>
          <description> 父は震災の前年、大正11年に母と結婚、中央線大久保駅の近くに居を構えた。 母は当時まだ18歳のうら若き娘であった。震災当日、父は勤め先であるM社のある丸ビルの六階でちょうど食事を始めようとするところだった。ここは会社の食堂になっていた。 ここで未曾有の ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[<br />　父は震災の前年、大正11年に母と結婚、中央線大久保駅の近くに居を構えた。<br />　母は当時まだ18歳のうら若き娘であった。震災当日、父は勤め先であるM社のある丸ビルの六階でちょうど食事を始めようとするところだった。ここは会社の食堂になっていた。<br /><br />　ここで未曾有の大震災に遭遇した父の話は、歳の行かない子供にとっては驚くことばかりだった。<br /><br />　まだその年の4月に竣工したばかりの丸ビルは、当時の最新技術を結集して三菱地所とフラー社が共同で建設したもので、見るからに頑丈そうな9階建て（地下をいれて）の近代的なビルだった。その大きさ、設備は東洋一と持て囃された。それが大揺れに揺れたばかりか、最初のひと揺れで、まずカレーの皿とフォークがテーブルから床に落ちた。さらに10分後に襲った大揺れで、この大ビルが胴震いし、外壁の化粧レンガのほとんどが、雨のように地面に落下したという。<br /><br />　ビルの住人は慌てふためき、この地震から逃れようと、階段を上る人、降りる人でごった返し、踊り場でもつれ合い、折り重なって、各階ごとに軽傷者も出た。当日は、その後も何度も揺り返しが来たが、歩いて東京駅まえの丸の内から大久保の自宅へ戻った。残された家族はどうかと見ると、母は近所の人たちと一緒に、森の中に蚊帳をつり、茣蓙（ござ）の上に敷いた布団の上で、ブルブル震えていたそうだ。母などまだ、18の小娘でさぞかし怖かったことであろう。<br /><br />　交通機関も大きな痛手を受け、その後一ヶ月間は電車も止まったまま。仕方なく毎日、丸の内の会社まで、歩いて通勤した。会社から証明書を書いて貰い、それを提示して、地下室でなにがしかの食料を受け取り、リュックに詰めて背負い、鉄橋の上も足元がふらつくのを我慢して歩き、家へ着いた時はもうあたりも暗くなっていた。こういう日々が何日も続くのでまるっきり仕事にならなかったらしい。<br /><br />　関東大震災は9月1日の一日だけだと思ったら、大間違いで、二十日くらいは毎日のように、大揺れが来て、箪笥から花瓶や本がバラバラと落ち、家では怖くて安眠できなかったと云う話だ。　<br /><br /><br />　テキスト作成者　　Kazuo（記録提供者の弟）　]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-06-09T07:15:23+09:00</dc:date>
              <dc:creator>kousei3</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=812&amp;post_id=3432#forumpost3432">
    <title>西埼玉地震 地震記録編集報告書</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=812&amp;post_id=3432#forumpost3432</link>
          <description> はじめに この記録は、埼玉県本庄市在住の 清水義信様が、小学校一年生のときに経験された「西埼玉地震」に関する記録を県内外の自治体や気象台などから集め、それに基づいて作成された「地震記録編集報告書」です。 また、清水さまは、それらをもとに作成された「 ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[　はじめに<br /><br />　この記録は、埼玉県本庄市在住の　清水義信様が、小学校一年生のときに経験された「西埼玉地震」に関する記録を県内外の自治体や気象台などから集め、それに基づいて作成された「地震記録編集報告書」です。<br /><br />　また、清水さまは、それらをもとに作成された「地震が起きたときの心得」等を含め、合わせた小冊子を作成、関係方面に配布しておられます。<br /><br />　ここに、その一部をご本人のご了解を得て掲載させていただくものです。<br /><br />　メロウ伝承館スタッフ　Kousei3<br /><br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br /><br />　地震記録編集報告書<br />　（熊谷気象台）北関東地震（前橋気象台）宛<span style="color: #CC9900;">《あて》</span><br /><br />　（1931）一昭和6年9月21日午前11時20分頃突如発生した大地震について、記録の編集を別紙により作成を致しましたので、災害時に貴下の参考にして頂ければ有り難いと思います。先ずは報告まで、不慣れな私ですが不備な点が有りました時は、お許し下さいませ。今後とも宜しくご指導ご鞭撻の程をお願い致します。<br /><br />　　　平成19年8月5日<br /><br />　編集者　埼玉県本庄市　清水義信<br /><br />　西埼玉地震記録を編集に当たり（参考資料）この趣旨は申すまでも有りませんが、災害は忘れた頃にやって来るものと言はれていますので、普段から心の準備をして頂ければあり難いと思い、後世の皆様に残して置く為に出筆させて頂きました。<br />　さて、この地震は75年前に起きた児玉町の大地震だと思っていましたが熊谷気象台へ記録を探しに行ったときに恥ずかしながら始めて西埼玉地震（前橋気象台では北関東地震）の名前を知りました。大正12年9月1日に発生した大地震<span style="color: #CC9900;">《＝関東大震災》</span>のことは良く知っておられる方が多いと思われますが、西埼玉大地震、震度（6．9）が昭和6年9月21日午前11時20分頃発生した事は覚えていない方が大勢居られるものと思います。そこで私は小学1年生の時にあった地震の事を、止むに止まれずに各地の官公署等に記録を探しに東奔西走して、新事実を発見する事が出来ました。それは北関東平野の利根川、荒川、緑断層地帯の地下約10kmの空洞化の陥没による引き金と考えられます。別紙の記録通りで有りますが、簡単に述べさせて頂きますと、当初震源地は深谷市南方小川町の仙元山付近であると記録して有りましたが、小川町では後で訂正し深谷市の西部と改められ地図で見ますと児玉町が震源地であったと考えられ、死者、全壊、半壊等を検討するとその数量が最高であった事で証明されています。皆様災害が起きた時の対策を忘れずに考えておいて下さい。<br /><br />　参考まで（私の処では皆様の為に少しでも役立つように最小限度の（救助用品、食料品、医薬用品、作業用品等を）準備して有りますので、何時でも遠慮なく避難して来て下さい、お待ちしております。　最後に成りましたが埼玉では危機管理体制ができていないように思われますので早く作成して頂きたいものですね。<br /><br /><br />　児玉町の大地震について<br />　<br />　私が小学一年生の頃でした。先生に連れられて町の東の山王山へ写生に行き、11時20分頃下の道路に降りた時、突然大地震が発生して50センチ位の亀裂<span style="color: #CC9900;">《きれつ》</span>が走り数人の生徒が転げ落ち、大急ぎで引きずり上げ桑の株にしがみ付き、長い間静まるのを待って、帰校し様としたが約200メートル位の距離にも係わらず、途中には家屋の倒壊や火災などで通行出来ずやっとの思いで田畑の中を必死に逃げて家に帰る事ができました。畑に柱を立て蚊帳をつり寝たが、一晩中大きな揺れが続いて眠れずに夜が明けて見ると、犠牲者や負傷者が多勢出て町中歩けず、目を背ける程の地獄の底の様で、テレビで見た阪神淡路大震災の光景と同様でした。（皆さん児玉の大地震を知る方が、殆ど<span style="color: #CC9900;">《ほとんど》</span>知らない方が多いいと思います。）<br /><br />　今後いつ大地震が起こるか知りませんが、普段からその心構えをして頂きたくお願いもうしあげます。（児玉町の大地震は若しかすると直下型であった物と考えられます。）<br /><br />　　　　　　平成19年3月10日　Y，S<br /><br /><br />　児玉町唯一の写真発見<br /><br />　昭和6円9月21日に児玉町を突然襲った大地震に就いての、記録等が何処を捜しても保存してないと諦めていましたが、唯一枚の写真が偶然にも私の家の近くの高橋孝さんの家にありました。<br />　その理由は、叔父の高橋寛衛門様が児玉町役場の兵事係に勤務して居た時に写した写真です。それを昭和22年頃奥様が保存して置いた物を頂いたのであります。児玉町に於いては尊い宝物であるので永久に保存して頂きたいと願っております。<br />　（下記の写真は、児玉町小学校通りの物であります。）<br /><br /><br /><br /><a href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/photos/753.jpg" target="_blank"><img src="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/thumbs/753.jpg" align="left" alt="" /></a><br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-05-20T08:06:12+09:00</dc:date>
              <dc:creator>kousei3</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=809&amp;post_id=3428#forumpost3428">
    <title>アジア鎮魂の旅・その１３</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=809&amp;post_id=3428#forumpost3428</link>
          <description> 待望した復員の日−２ 砂浜に丸太の柱を立て ニッパ椰子の葉で屋根を葺き それに乾燥させた野草を敷き詰めた 家畜小屋を連想させる様な我が家でも、之で永遠の見納めに成るのか！・・・と思えば些か感慨深いものがある。 この様な我が家でも 「 発つ鳥水を濁さず 」 ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[<br />　待望した復員の日−２<br /><br />　砂浜に丸太の柱を立て　ニッパ椰子の葉で屋根を葺き　それに乾燥させた野草を敷き詰めた　家畜小屋を連想させる様な我が家でも、之で永遠の見納めに成るのか！・・・と思えば些か感慨深いものがある。<br />　この様な我が家でも　「　発つ鳥水を濁さず　」の故事に倣って清掃し、干し草のベットに敷いてあった万年パンツにする筈だった麻袋も雑草といっしょに焼却した。<br />　懐かしい故郷への復員を一日千秋の思いで待ち望んでい乍ら　病に倒れ、不帰の客となった四国出身のＫ氏の眠る　墓前に全員が整列して別れを告げた・・・　誰一人見守る者もいない南瞑の孤島に、彼一人　置き去りにして帰る我々は後ろ髪を引かれる思いであり、深い悲しみの中　冥福を祈って　多恨村を後にしたのだった。<br />　我々の血と汗と涙で切り開いたブッシュの道、幾度かの食料受領で通った泥濘の道も、愈々帰国となれば、足も軽やかになる。　追分村　経由で宝港に到着したのは夕方になった。久し振りに一夜を過ごす宝港に来て見れば、　軍司令部の百坪余も有りそうな建物や　膨大な付属建物も有り、また港の近くでは古惚けた自動車まで走っている。<br />　凡そ 我々中央を外れた場所に住む最下級兵士達は想像もしなかった　この別世界を     垣間見て　多くの者は其の違いの大きさに腹立たしさを感じたのだった。<br />　宝港におけるレンパン島最後の野営も興奮して眠られずウトウトしながら朝を迎えた。<br />　沖には既にアメリカのリバテー船が停泊している。食事を済ませ一夜の後片付けを終了し、逸る心を抑えながら桟橋に集まり、此処からは大発に分乗し,リバテイ船に横付け　して　乗り移るのであるが、リバテー船に近付くと、驚く事に、タラップは無く、ただ縄梯子が四カ所に吊り下げられているだけである。<br />　如何に1万?クラスの大型船とは云え　波に揺られており、一方　木の葉のように　大きく揺れる大発から　この縄梯子を使って　よじ登り、乗り移る芸当は　健康体であっても難しい。　まして栄養失調の我々にとっては尚更　危険極まるものであったが、　　「　此処で落ちてたまるか！　」と満身に力を込め、　「　ヨイショ！　ヨイショ！　」　の掛け声にタイミングを合わせながら一段、一段と登りつめた。<br />　どっこいしょ、と最後の一段を登り詰め　、甲板に足を踏み込むと同時に、「今度こそ内地へ一直線に帰れる！・・・」という安堵感から一気に体中の力が抜け、焼け付く様な甲板に座り込んでしまい、仲間同士は　無言のうちに手を握り喜び合った。<br />　私は一旦船倉に行き、之から内地へ到着するまで夫々が寝起きする場所を確認して、僅かな荷物を置くと、直ちに蒸し風呂のような船倉から甲板へ飛び出した。　同じ乗船でも　行き先不明のまま　シンがポールを出港した時と違い、皆の顔は本当に明るい。<br />　　　「　港シャンソン　」を口ずさんでいる者もいた。<br />　甲板から　リオウ諸島の上空に　沸き上がっている入道雲を眺めながら　幾多の苦難を乗り越えて来た感慨を込めて誰かが唄いはじめた。<br />　　　　　　さらばレンパンよ　　また来るまでは<br />　　　　　　しばし別れの　　　　涙をかくす<br />　　　　　  恋し懐かし　　　　　　あの島見れば<br />　　　　　　椰子の木かげに　　十字星<br />　並み居る皆の顔は涙で　くしゃくしゃになり乍らも　拭く事を忘れ大合唱となった。<br />　リバテイ船への乗り込みが完了したのは、乗船開始から数時間を要し、船が錨を上げたのは、陽も大分　西に傾いた夕方に成っていた。<br />　今にも沈まんとしている太陽が波に反射して眩しい！　、そんな中　船はレンパン島を出港し、南シナ海を経て　日本へ向かう永い航海が始まった。昭和二十一年六月十四日　生涯忘れられない日である。<br />　平穏な航海を続ける事一週間目に　天候の変化を予知する様な雲行きに不安を感じ、状況説明を求めたところ、船長側から「　小型台風の発生情報をキャッチした為　之を避けるべく　西に航路を変更して避難行動中である　」　と言う説明を受けた。然し波風は時間と共に其の激しさを増し、荒れ狂う波は一万?以上はあろうと思われる大型船で有りながら、木の葉の如くローリング、ピッチングを繰り返し、大きな波が来ると喫水十?以上ある船の甲板から波に手が届く程傾く、その恐怖を感じながらの数時間こそ　全員の心は<br />　　「　折角　拾った命ではあるが之で駄目か・・・」　<br />と観念しつつ一時も早く台風圏内から脱出　出来る様に・・・と祈ったのである。<br />　我々の仲間達は一部を除き　多くは　海上での暴風を経験した事が全く無い山国育ちである為　今にも転覆するのでは・・・・と思うような　台風の恐ろしさを初めて知った尊い経験であった。<br />　台風も去り、明けても　暮れても空と海しか見えない単調な船旅が続く中で、我々の心を癒してくれたのは沖縄の東方を北上中　デッキに上がれば、昼はイルカの群れが船に戯れる如く泳ぎ回り、また飛び魚がデッキに飛び込んで来るような珍しい光景を、　夜は船の舳先から尾を引くように光る夜光虫の光などを眺める事が楽しみであった。<br />　北上を続けた船は、愈々豊後水道に入って来た。　其の頃ようやく「　本船はこの先、瀬戸内海に入り　広島県の宇品港に入港する・・・・・　」との連絡があった。　デッキから見る小島には　松ノ木が目に入り、確かに日本だと実感する事が出来た。<br />　また、近づいて来た漁船の二人は夫婦だろうか？　、我々に手を振ってくれた。「　やっ、日本人の女性だ！・・・・　」と　皆口々に叫びながら、感激の涙を流したが、お互いに顔を見合わせ、何の涙か分からない。　ただ、照れ隠しの為に笑い、はしゃいだ。　途中台風に遭遇したとは言え　約半月間に亘る航海も無事に終わり、リバテー船は宇品港に入港した。　しかし、検疫準備の為直ぐには上陸できず、船上から街の明かりを眺めつつ逸る気持と興奮の中で一夜を過ごした。<br />　此処で我々復員者に対して、　石黒貞蔵　南馬軍司令官からのメッセージを紹介する。<br /><br />　「　今ヤ諸氏、洋々タル希望ニ満チテ、新生ノ門出ニ旅立タントス。諸氏ノ歓喜、正ニ言語ニ絶スルモノニアルベシ。本職モ而諸氏ノ心中ニ思イヲ致シ、更ニ諸氏ノ帰還ヲ鶴首シアル　郷党ヲ偲ビテ、衷心ヨリ祝福ノ意ヲ呈セザルヲ得ズ。　然リ而シテ諸氏ノ克ク知ラルル如ク、邦家ノ現況ハマコトニ多事多端ニシテ、ソノ諸氏ニ待ツトコロ而甚ダ大ナリ。邦家ノ再建ハ、真ニ国ヲ思イ自ラソノ礎石タルヲ以ッテ任ズル忍苦ノ士ニシテ、始メテ之ヲ為シ得ル所、内地ヲ遠ク離レテ幾星霜、不毛瘴癘ノ地ニ転戦シ、更ニ不踏ノ密林ヲ拓キテ営々大地ニ挑ミシ諸氏　＜レンパン＞ノ努力ハ、必ズヤ国家再建ノ原動力タリ得ベシ。<br />　コレ本職ノ敢テ本土帰還ヲ称シテ以テ門出トイウ所以ナリ。願ワクバ諸氏能ク本職ノ意ノアルトコロヲ体シ、身ヲ以テ邦家再建ノ闘士タランコトヲ。<br />　終リニ臨ミ海路ノ平安ト御健康ヲ祈ル　」　　　　　南馬軍司令官　　　石黒貞蔵<br /><br />　遂に我々は、焼け野が原と化した祖国日本に上陸した。広島に原子爆弾が投下された事も、其処で初めて知った。<br />　この荒れ果てた広島では、連合国軍将兵の傍若無人な振る舞い、戦争被害者の惨めな実態、女性の変貌等などを目の当りにし、竜宮から帰った浦島太郎のような錯覚に陥って　一様に悲憤慷慨　唇を噛んだ。<br />　そしてチュンポンの山中で　「　お前達は日本に帰り、荒れ果てた日本を再建する大事な仕事がある　」　と諭されたＫ班長の言葉を思い出したのである。<br />　文字通り九死に一生を得て帰国した昭和21年7月1日こそ私の生涯忘れられない記念日であり、生活が安定したら必ず多くの仲間達が尊い命を落とした東南アジアの地を訪れ冥福を祈る旅をしよう、と心に誓ったのであった。<br /> <br />　さらばレンパンよ　　又来るまでは<br />　しばし別れの　　　　涙をかくす・・・・・<br /><br />　2006年8月29日 (火)　記<br /><br /><a href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/photos/744.jpg" target="_blank"><img src="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/thumbs/744.jpg" align="left" alt="" /></a><br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-05-16T09:04:41+09:00</dc:date>
              <dc:creator>kousei3</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=810&amp;post_id=3414#forumpost3414">
    <title>されど、満洲61年めに手にした両親・姉の形見</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=810&amp;post_id=3414#forumpost3414</link>
          <description> 昨秋、姉が彼岸の地に旅たった。兄弟妹で鞍山の想い出を語るのは小生のみとなった。それは、亡き父母に生前聴いていたことがあった。 昭和２２年旧満洲から引揚時に父母が現地鞍山市で寄託した「預貯金通帳・証券類」の行方のことでした。小生自身永年気懸かりだっ ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[　昨秋、姉が彼岸の地に旅たった。兄弟妹で鞍山の想い出を語るのは小生のみとなった。それは、亡き父母に生前聴いていたことがあった。<br />　昭和２２年旧満洲から引揚時に父母が現地鞍山市で寄託した「預貯金通帳・証券類」の行方のことでした。小生自身永年気懸かりだった一つであった。これらが在るのか、無いかでも知りたくて時間もかかり面倒なことでもあることを予想して思い切って探すことにした。<br />　引揚港が佐世保でしたので、今年２月長崎税関へ仔細を述べ問合せた。「同姓同名かも知れないが横浜税関に、父の名と同じではあるが該当するものあり」と連絡を受けた。一瞬「なぜ横浜税関？」と思った。暫くして横浜税関から細かい聴き取り調査を受けた。平成２０年３月１９日に、「当時の情勢」や「名残」「香り」のある「貯金通帳・証券など６物件」が、６１年めに私の手元に戻ってきた。早速墓参し、亡き父母姉に報告する事が出来た。<br /><br />　60年を超える時間を、持ち主が名乗り出ることを待ち続けた「形見」に、そして丁寧に保管していただいた「税関の方々」に感謝いたします。ありがとうございました。<br />　<br />最後に、まだ一つ想いが残るのは亡き父母が『鞍山で寄託した預貯金通帳・証券類がいつどのような方法（旧在満日本政府機関、船名など）やルートで横浜税関に届けられた』かが是非知りたいことです。ご存知の方がいらっしゃたら教えてください。　　シーメン<br /> <br />　]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-04-23T08:10:18+09:00</dc:date>
              <dc:creator>シーメン</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=14&amp;topic_id=799&amp;post_id=3406#forumpost3406">
    <title>Re: 明治・大正・昭和を歩んだ祖父の記録から</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=14&amp;topic_id=799&amp;post_id=3406#forumpost3406</link>
          <description> ◎ 百年のときを経て交わる後日譚 百年前の1911年に書留めた日誌に「我が子孫の為之を 誌す」とて 未だ少女年頃の母が登場し 其の十年後に は父と結縁 2年後に我れが子孫に連なった やがて先の草稿は本稿に改定され 披見は2007年である から 孫たる我は既に祖父を十 ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[ 　　　◎　百年のときを経て交わる後日譚<br />　百年前の1911年に書留めた日誌に「我が子孫の為之を<br />誌す」とて　未だ少女年頃の母が登場し　其の十年後に<br />は父と結縁 2年後に我れが子孫に連なった<br />　やがて先の草稿は本稿に改定され　披見は2007年である<br />から　孫たる我は既に祖父を十歳も超えて一世紀後に及ん<br />で事細かに述べられた事実に接した<br />　この外地居住は　父母の身罷った後も幼年から24年間に<br />及び 終戦を境に今日までの間　祖父に接した人達からは<br />何も聞く事無く「何故?」との自問を解く術べを失したが<br />記録に登場した亡き有縁の人達の真実の一々が想起され<br />それは自ずから「感応道交」の哲理を諦聴せしめ　総てが<br />心情豊かに解され　一々の文字を懐かしく拝しいる<br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-04-16T17:36:05+09:00</dc:date>
              <dc:creator>自然</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=776&amp;post_id=3405#forumpost3405">
    <title>Re: 南十字星の下で （５）ホベン</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=776&amp;post_id=3405#forumpost3405</link>
          <description>kousei3様 はじめまして... 「南十字星の下で」拝読致しております。 精細なる記述、その内容に驚愕しております。 私の父、＜岡田義男大尉＞は 戦時中、「近衛歩兵第三聯隊・東部六部隊」に所属し、「照7713部隊・多田隊」の一員として、パラオ島に派遣されており ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[kousei3様　はじめまして...<br /><br />「南十字星の下で」拝読致しております。<br />精細なる記述、その内容に驚愕しております。<br /><br />私の父、＜岡田義男大尉＞は　戦時中、「近衛歩兵第三聯隊・東部六部隊」に所属し、「照7713部隊・多田隊」の一員として、パラオ島に派遣されておりました。<br /><br />パラオ島にて、連日米軍の猛烈な空爆にさらされたという話は聞いていたのですが、詳細は不明にままです。<br /><br />kousei様　記述の中に、＜照部隊一個師団がパラオ防衛のため到着した　云々＞　とありますが、私の父がそのときにパラオに出撃したのか？　よくわかりません。<br /><br />大きな疑問は、父の所属した原隊である「近衛三聯隊」と「照部隊」との関係です・・・<br />「照兵団」は、＜歩2＞＜歩15＞＜歩59＞で編成されていたと聞いておりましたので、「近歩三・東部六部隊」との関連が　結びつかないのです・・・<br />　<br />もし、当時のその辺の状況など　お判りでしたら　ご教示賜りますれば幸いです。　不躾な＜メッセ＞、伏してお詫び申し上げます。　岡田義明<br /><br /><br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-04-16T13:05:23+09:00</dc:date>
              <dc:creator>岡田義明</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=787&amp;post_id=3395#forumpost3395">
    <title>捕虜と通訳 （小林 一雄） （５８）</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=787&amp;post_id=3395#forumpost3395</link>
          <description> 第七章 進駐軍通訳に転身 これが私の戦後の始まりだ・その２ その彼らも、こうして接収する邸宅をお互い同士で奪い合っていた。まず上級の将校連中の間で競い、段々と下級者間でわれ先にと取り合う。入居するとアメリカ式に勝手に改造、日本式伝統の部屋はあとかた ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[　<br />　第七章　進駐軍通訳に転身<br />　　　　　これが私の戦後の始まりだ・その２<br /><br />　その彼らも、こうして接収する邸宅をお互い同士で奪い合っていた。まず上級の将校連中の間で競い、段々と下級者間でわれ先にと取り合う。入居するとアメリカ式に勝手に改造、日本式伝統の部屋はあとかたもなくなった。?民家争奪戦〃のようすは、横で見ていて滑稽（こっけい）なほどだったが、彼ら同士は真剣だった。こんな不意打ちの邸宅接収に音をあげた住民たちは「せめて同居を条件に一部の部屋だけを使ってほしい」「他に住むところもない。接収を免じてほしい」と私にプレゼント品を持って懇請の仲介を依頼する人がふえてきた。会社経営者や地主ら金持ちが多かったが、どうにもならず、プレゼント品を返し、お引きとり願った。とにかく、敗者に選び、拒否する権利はなかった。心ある将兵の中には同居に応じる人もあったが、個人の人柄の問題だった。私自身も情けなかった。<br />　とはいえ、接収住宅だけではアメリカ軍将兵の住宅需要を満たすことはできなかった。しばらくして広い浜寺公園を潰<span style="color: #CC9900;">《つぶ》</span>し、占領軍用住宅地に建設しなおす指令が出た。短期間にしゃれた大きな軍用住宅が完成し、彼ら占領軍妻帯者のほとんどはここへ受け入れた。だが、この建設に工事に当たっても受発注に利権がつきまとい、担当将校と日本側業者間の接待工作などが大っぴらに行われ、私ら選択も巻き込まれ、その対応には頭を痛めたことを覚えている。彼我ともに甘い汁を吸った関係者が多かったと思う。いつの時代にも、どこの社会にも絶えない?賄賂<span style="color: #CC9900;">《わいろ》</span>合戦"が横行していた。<br />　占領軍用のキャバレー設営の指令が出された。足場のよい大阪市の御堂筋沿いの大きな建て物を接収し改修した。すぐダンサー募集を開始したが、あのころ日本女性でダンスを踊れる人は少なかった。ちょっとでも経験したり、なかには未経験でも「知っている」と応募する若い女性がつめかけた。未復員の夫を待つ身で生活のためにという中高年の人妻も多かった。すべてはカネ…悲しい戦争直後の世相の一面だった。いわゆる?パンパン"<span style="color: #CC9900;">《＝売笑婦》</span> の出現である。占領軍兵士の物資横流しも見聞した。神戸港から補給部隊のある大阪市の杉本町キャンプ（旧大阪商大学舎）　に大型トラック数十台で各種物資を運搬していた。その途中でそのなかの一台が物資を積んだまま丸ごと消え、キャンプについて台数不足から事件が発覚する。恐らく途中、誰かの手引きで別の場所に運び売りさばいていたのだろう。誰がどんな方法で行ったのか知る由もなかった。<br />　日本人が村ごと結束して占領軍に抵抗したこんな事件にも出くわした。中部地方の寒村で第一軍団管下のアメリカ兵が行方不明となり死体が海岸に浮き発見される事件が起きた。調査班が派遣され、私も同行を命じられた。小さな旅館に数日間、泊っての調査が行われたが、村民や駐在所の巡査、果ては村長にいたるまで参考質問しても犯人はわからなかった。通訳する私も困り果てた。いっさい地元の人は口を割らなかったからだ。真相は後日わかった。その兵士が村の若い娘に暴行したのを知った村民が兵士を殺し、仇<span style="color: #CC9900;">《あだ》</span>討ちしたというものだった。「占領軍といえども人道上、許せない。われわれは正当だ」と村民は結束したという。原因は占領軍兵士だったといえようが、彼我ともに悲しい事件だった。<br />　教育改革を実施する準備に旧制中学校や旧制高女を巡回、教育方針や現状を調査したこともあった。教育担当将校やアメリカ人軍属の教育担当官らと巡回したが、わが母校の旧制大阪府立堺中学校（現三国丘高校）にも行った。私の恩師の一人がまだ同校で英語教師をしておりアメリカ側の要請で恩師にも通訳を依頼した。残念ながら読み、書きは大ベテランだが話すことが不得意だったので、思い余った恩師が卒直に謝り、私に通訳を逆依頼した。このことも戦後の学校英語教育のあり方の参考になった、とそのご、アメリカの担当官から聞かされた。あのころ、日本の学校英語は、読み書きは進んでいても会話、発音は大きく遅れ、十分話せる人は少ない時代だった。<br />　占領軍に勤務するかたわら、特別に要請されて堺市内の警察署や税務署、堺市の河盛安之介市長の通訳をしたことも多かった。警察署では?夜の女" 摘発、MPとの連絡調整。税務署では税務調査やヤミ酒醸造・販売事件と占領軍への連絡調整。市長の場合は占領軍に関連する各種イベントの通訳などだった。市長といえば戦後、間もなくある宮さまが堺市を訪問されることになり、金岡駐在のアメリカ軍の大隊長が「ぜひあいさつに殿下が部隊を訪れるよう措置してくれ」と市長に要請してきた。市長は「地方の大隊長にその必要はない」と強硬にこれを突つぱね、結局、市長のいう通りになった。後日、河盛市長や助役らはその大隊長以下、幹部将校を宴席に招いて丁重にもてなし１日本人の庶民感覚では皇室は特別のもので、もし貴殿のいう通りにしていたら、占領政策の実施にも悪い影響が出る恐れがあった」と説明した。大隊長も「日本人の国民感情を知らないで申し入れたことを反省している。ご協力への深い配慮に感謝する」と握手を交わしていた。列席した私ら通訳たちも両者の態度に感心した思い出が残っている。<br />　新円と旧円の交換をめぐつてもいろいろなことがあった。日本政府に対して占領軍GHQからその交換の時期、方法などがサゼッションされたが、その情報を当時の政治家のなかには事前に知っている人がいた。彼らは占領軍関係者に近づいて事前に旧円でヤミ物資を安く仕入れ、新円交換後、高く売りつける?ヤミ商人" と手を結ぶ人もあったと聞いた。具体的なことは寡聞にして知らない。悪徳商人や政治家の私腹肥やし、汚職の?ネタ" は、いつの時代、どこでもあとを断たないものだ。<br />　すべては終戦直後の混乱期の体験だった。新しい秩序が確立する前、古い秩序が破壊した直後、敗戦のショックを受けた日本人のすべてが生きることに精いっぱいの時期。明日への夢や希望を抱く余猶の生まれる余地どころではなかった時代だった。<br />　それにしても、戦犯裁判の証人として呼び出されたり、アメリカ占領軍に勤務した時代は、アメリカ軍の指示に絶対服従せざるを得ない立ち場だった。その前の捕虜収容所時代の立ち場が逆だっただけに、強者・勝者と弱者敗者ということ、運命の皮肉を痛感させられた。相手はいずれもアメリカ兵。しかし、私は二つの立ち場ともお互いに "一人の人間" としてつき合い、眺め、ある時は批判し、ある時は反省しながら歩んだつもりだ。だから苦しく、にがい思い出もあったが、すべてが懐しい。いま、関係者の多くの顔が、名前も思い出せないまま、走馬灯のように脳裏をかすめていく。<br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-04-09T07:41:51+09:00</dc:date>
              <dc:creator>kousei3</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=11&amp;topic_id=807&amp;post_id=3377#forumpost3377">
    <title>Re: 国破れて狡さのみあり</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=11&amp;topic_id=807&amp;post_id=3377#forumpost3377</link>
          <description> ５． もしも万一、日本に押しよせるというなら結構ではないか。七十万人までは受け入れましょう。こちらがダモイとだました訳ではなく、先方の意志で来るのだから心おきなくこき使うことが出来る。日本全国の土木工事は大いにはかどる。粗末なパンだけ与えて、最高 ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[<b>５．　</b>　もしも万一、日本に押しよせるというなら結構ではないか。七十万人までは受け入れましょう。こちらがダモイとだました訳ではなく、先方の意志で来るのだから心おきなくこき使うことが出来る。日本全国の土木工事は大いにはかどる。粗末なパンだけ与えて、最高十一年までは使ってもよい。もちろん賃金などは一切払う必要はない。労働証明書というのをくれてやって、金はロシア政府から貰えと言えばよい。苦情を言う者があったら、斎藤六郎を見習え、と言ってやればよい。<br /><br />　何の自助努力もしないで、援助をくれなければ難民が出るぞ、保守派が復活するぞ、などと弱者の個喝をくり返しながら手を差しのべる横着者に唯々諾々と金を与えることは、彼らの掠奪体質と怠慢を助長して、さらに大きな要求を誘発するだけだ。<br /><br />借款の利子すら払わぬくせに、海外の銀行には莫大な隠し預金があることは今や公然の秘密である。米英の金融筋などによると、外貨のひそかな持ち出しは、数年前から行われていたが、そのピークは一昨年のクーデターの前で、その時だけで数百億ドル。<br /><br />　スイス、フランス、南米などの銀行の秘密口座の数は数千に及び、総額は推測するしかないが、一千億ドルという数字すらあり、少なくも数百億ドルはあるらしい。これは主として旧共産党によって持ち出されたものだが、それだけではない。<br /><br />最近の大統領府と最高会議側の相互の汚職暴露と非難合戦によって、現在でも双方の上層部メンバーによって外貨のくすね取りと海外への隠匿が行われていることが明らかになってしまった。<br /><br />　かつて、ソ連に食糧がない、とマスコミがあおり、社会党の土井たか子が純情にもラーメン十万食を寄贈したことがあった。社会党が長年にわたり、ソ連共産党から政治資金を貰ってきたことのお返しのつもりだったのかも知れないが、これはモスクワのドルショップで売り捌かれて外貨に化け、誰かのポケットに入ってしまった。<br /><br />どういう名目で誰に渡されようと、援助は要所々々に待ち伏せするこれらの泥棒たちにくすねられて、彼らの口座がふくらむだけである。彼らに対する最も有効な支援とは、何も支援しないことによる自立精神の函養であると思う。?国敗れて校さのみあり″では金輪際詩にもならぬではないか。<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（了）<br />]]></content:encoded>
              <dc:date>2008-02-07T17:10:52+09:00</dc:date>
              <dc:creator>kousei2</dc:creator>
              <dc:subject>伝承館フォーラム</dc:subject>
      </item>
  <item rdf:about="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=11&amp;topic_id=806&amp;post_id=3372#forumpost3372">
    <title>Re: 教会の廃墟と国民総泥棒ぶり ― 共産国家で見てきたこと ―</title>
    <link>http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=11&amp;topic_id=806&amp;post_id=3372#forumpost3372</link>
          <description> 御存知漁業相イシコフ銃殺 以前、ソ連漁業省にイシコフという大臣がいた。二十何年大臣の椅子にあり、日本にも何回かきた著名人で、その下にいた次官は私共のやっていた魚の輸入商談にも何回か出てきた人物だが、この次官がある日突然いなくなった。 同時に顔なじ ...</description>
              <content:encoded><![CDATA[<b>御存知漁業相イシコフ銃殺</b><br /><br />以前、ソ連漁業省にイシコフという大臣がいた。二十何年大臣の椅子にあり、日本にも何回かきた著名人で、その下にいた次官は私共のやっていた魚の輸入商談にも何回か出てきた人物だが、この次官がある日突然いなくなった。<br /><br />同時に顔なじみの省の役人も何人か消えてしまった。変だな、と思っているうちに日本でも報道された例のキャビア事件が明るみに出てきた。あるモスクワの市民が安いニシンの缶詰を買ったところ、中には庶民の手には届かない高価なキャビアがつまっていたことから騒ぎが始まり、官僚の調査によって漁業省の組織ぐるみの犯罪であることが分かった。<br /><br />　キャビアを缶詰にしてニシンのレッテルを貼り、ニシンとしてごく安い価格で西側に輸出し、そのバイヤーからは多額の外貨を裏口座に入金させて大臣以下関係者で分け合っていたのだが、何かの間違いで一部が国内向けに出荷されたことから明るみに出た。これは外国にも広く知れわたってしまったためか、大臣、次官は銃殺されたという。十五年くらい前の話である。<br /><br />ロシアの小噺に「ソ連くらい豊かな国は世界中にない」というのがある。革命以来七十年ほども二億を超す国民全員が、これだけ国から盗んでも、まだ盗むものが残っているから、というのがオチである。キャビア事件などは氷山の一角で、組織ぐるみの盗みはいたる所でみられる。<br /><br />　数年前アルメニアで大地震があり、