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  <title>メロウ伝承館</title>
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    <title type="html">戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・２  （林ひろたけ）</title>
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    <updated>2008-07-06T07:35:28+09:00</updated>
          <published>2008-07-06T07:35:28+09:00</published>
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          <summary type="html"> 金の採れる里、順安面 順安面は平壌の北二〇数キロにあった。現在は平壌市に合併され、平壌順安国際空港の存在地 である。 北朝鮮の片田舎の順安面は国際空港ができるまで無名の村だった。しかし、日本に紹介された文献にはいくつかの記述がある。 豊臣秀吉の朝鮮 ...</summary>
              <content type="html">
        <![CDATA[
        <br />　　金の採れる里、順安面<br /><br />　順安面は平壌の北二〇数キロにあった。現在は平壌市に合併され、平壌順安国際空港の存在地<br />である。<br />　北朝鮮の片田舎の順安面は国際空港ができるまで無名の村だった。しかし、日本に紹介された文献にはいくつかの記述がある。<br />　豊臣秀吉の朝鮮出兵（朝鮮では壬申倭乱という）　のとき、小西行長は平壌まで占領した。このとき五〇日の休戦協定が結ばれたが、朝鮮とそれを支援していた明国の陣営が順安に置かれたと記録がある。一五九二年のことである。<br />　一九一九年の三・一独立万歳事件では、順安で一五八〇余名が六回にわたって集会を行い暴動になり、逮捕者一五七名をだし数十名が死傷した。<br />　三・一万歳事件とは、一九一〇年に「日韓併合」　（日本の朝鮮の軍事占領が全面化した年と韓国の教科書には書かれている）してから九年後、日本の植民地支配に反対した朝鮮人民が「朝鮮独立万歳」をとなえて各地で示威運動を行い、これに対して日本の官憲は激しい弾圧をおこない多数の民衆を虐殺した。朝鮮全土では当時の人口二千四百万人、参加者は二百二万人にのぼり、逮捕者四万七千人、死者七千五百人、負傷者一万六千人と記録されている。（「朝鮮独立運動の血史」　朴殿植著）。<br />　一九二五年順安にあるキリスト教系病院の経営者が、リンゴ泥棒に手をやいて朝鮮人少年の額に塩酸で「リンゴ泥棒」と書いた事件があった。当時、西洋人の　「有色人種蔑視事件」として、耶蘇教の人種差別事件として大々的な西洋人排斥運動に利用されたという。<br />　一九三五年、朝鮮総督府はすべての学校で神社参拝を行うことを通達した。これに対して、平壌崇実専門学校校長とともに順安義明中学校校長が「キリスト教を校是にしているわが校では生徒に神社参拝を強要することはできない」　と拒否をした。<br />　平安南道知事は　「わが国の教育方針に逆らう学校については廃校することもありうる」と強硬な態度に出たため、廃校問題がおこった。アメリカ人校長は帰国して順安義明学校は廃校になった。（以上の二項は　「日本の朝鮮支配と宗教政策」　韓哲義著）<br />一九五〇年朝鮮戦争初期に北朝鮮の捕虜になったアメリカ陸軍のディーン准将が順安捕虜収容所に収監された。（「朝鮮戦争」　小島裏著）<br />　一九五〇年の十月、朝鮮戦争で米軍の支援を得た韓国軍は平壌の占領をめざすとともに金日成を首班とする北朝鮮政府の退路を断とうと順川、粛川、永柔（平原郡部庁所在地）などに大量の空挺部隊を降下させた。このときすでに金日成ら政府首脳は中国国境に退避していた。（「朝鮮戦争」　小島裏著）<br /><br />　父晋司の家は江戸時代の末期、長野県の山間地の大地主であった。晋司の祖祖父が、一里先の妾宅で死んだ時、他人の土地を踏まずに自宅に帰ってきたという逸話がある大地主であり、同時に名門でもあった。しかし、明治になって没落がはじまり祖父の代のとき、破産して、林家は一挙に落ちぶれほとんどの土地を失い小地主に転落した。父は次男であった。村の高等小学校を卒業すると横浜に糸相場商の丁稚になった。<br />　大正元年、徴兵検査とともに松本連隊に入るとすぐに満州（中国東北部）に派遣された。第一次大戦とシベリア出兵の戦争に参加し、十三年間の軍隊生活を経て曹長になっていた。<br />　大正十年、第一次大戦が終わった年、父は長野県の家のあとを継いだ兄嫁の妹であったハナを嫁にした。その四年後、軍縮で現地除隊することになった。長野県の山間地で育ち次男でもあった晋司は、「猫の額はど」の土地しかなかった長野の故郷に帰らず、大陸に土地を求めた。満州では日本人は土地をもてないからという理由で、晋司は退職金で朝鮮に土地を買って農業をはじめた。大正十四年（一九二四年）　のことだった。<br />　十三年間、軍隊にいた晋司にとって自分の土地をもつことは生涯の夢だった。ちょうど順安の北方二里ほどのところに貯水池ができて灌漑がはじまろうとしていた。<br />　朝鮮では水田のことを沓　（とう）　といった。当時の朝鮮総督府は朝鮮に水田を広めるために開沓事業にとりくんでいた。日本全土を揺り動かした一九一九年の米騒動以後、増大する日本の人口の米の不足を朝鮮で補うことを念頭に朝鮮全土で　「産米増殖運動」を大々的にすすめていた。<br />　たしかにそれまで粟を主食としていた北朝鮮の農民は米を手じかに手に入れることが可能になった。しかし、開沓事業は日本の米事情によって開始されたものであった。開沓事業によって強制的に水利組合に引き込まれ、土地取り上げが行われた。水利組合にくみこまれた土地には新たに多額な水利税がかけられたため、その負担に耐えきれない農民が続出した。開沓事業が始まると各地で旧来の朝鮮の地主達も自作農達も土地をつぎつぎに手放し始めていた。とくに北朝鮮はそれまで水田の発達がおくれていたため、開沓事業は大掛かりに進められた。それだけ農民の没落と階級分化は激しくすすんだ。朝鮮の植民地経営会社＝東洋拓殖株式会社は日本人には金を貸したが、朝鮮人には担保なしに金を貸さなかった。そのため朝鮮人地主は新たな土地を手に入れることが出来ず、むしろ土地を手放すものが多かった。一方、日本人地主達は、日本人というだけで、次々に土地を拡大することができた。晋司はこうした気運のなか、畑地や荒地を購入し、畑地を水田に変えて開沓事業の先頭に立った。<br />　幸運にもめぐまれた。最初に購入した二町歩ほどの土地から砂金が出るということになった。<br />　その土地は大幅な値上がりをした。その土地を売っては新しい土地をつぎつぎに買い求め、砂金がでない土地は畑から水田にかえ十年足らずのうちに、二十数町歩の水田を所有する大地主、大農園を経営する大地主になっていた。<br />　朝鮮人の地主のことを両班　（ヤンバン）　といった。ヤンバンとは正確には朝鮮の旧貴族のことを指しているのだが、総じて朝鮮人の金持ちのことをヤンバンといった。朝鮮の地主ヤンバンたちは、儒教の影響もあって自ら畑や田んぼにはいって働くことはしなかった。晋司は日本人の小地主出身らしくに自ら田んぼにも畑にもはいった。畑を平坦にして田んぼにするために自らチゲ（背負い子）　を背負い、トロッコをおしたり土を運んだりして朝鮮人といっしょに働いた。満州から移ったばかりの時には、人夫集めにも苦労した。夕方にその日働いた賃金をその日のうちに人夫に支払った。働いても月末にならないと支払いをしない朝鮮流のやり方を変えた。また、新しく地主になったために小作人になる朝鮮人の確保にも工夫が必要だった。そのため小作人の扱いも日本流にした。朝鮮では小作人は土地を借りると収穫の五割を地主に取られた上、税金や水利税やさまざまな肥料代などの経費のすべての負担が小作人にかかった。しかし、晋司は日本流に小作料を五割にして、土地税や水利税などすべてを折半にした。小作料が他の朝鮮人地主に比較して割安になっていた。水田にした田の畔に日本流に畔豆を植えることを教え、それも日本と同じように小作人のとり分にした。そうした小作地経営は、そのかぎりでは朝鮮人の小作人に評判がよかった。晋司は、地元の朝鮮人地主との小作人獲得競争に勝つことができた。<br />　順安には警察署長や郵便局長、それに日本人学校と普通学校（朝鮮人の国民学校）に勤めている先生などと、リンゴ園など農園を経営している二・三世帯の日本人とそれに「請負師」とよばれる小土建業をしている数世帯の家族がいた。昭和五年ごろ砂金会社ができると順安砂金会社に勤めている従業員など加わり、八〇世帯ほどの日本人がいた。そして、日本人の多くは順安駅のまわりに日本人だけかたまって住むか、やはり順安駅のまわりにあった砂金会社の社宅に住むかそれぞれ日本人でかたまっていた。<br />　林家だけは順安駅から北に一キロはどの朝鮮人の部落、館北里のなかにあった。館北里は総じて貧しい集落だった。朝鮮人のヤンバンは住んでおらず、朝鮮人の家屋はほとんどが土間と部屋が一つあるだけの土塀で藁屋根の小さな家屋だった。オンドル一つの家は夏になるとほとんどの家族は、外で生活をした。夜は縁台を外に出しその上で寝ていた。赤ちゃんは道ばたでお尻をみんなに向けてウンチをした。すると、母親は「チョウ、チョウ」といって犬を呼んだ。野良犬がやってきて赤ちゃんのウンチをぺろりと食べてきれいに掃除をした。冬になると火事が多かった。オンドルの家は竃で炊いた火の煙を床下をとおして暖をとるが、その先の煙突のところが藁の屋根になっていて少し油断をするとすぐ火事になった。集落には共同井戸があった。井戸は深く、つるべを手でたぐつて汲み上げるため水くみには時間がかかった。共同井戸には近所のオマニ　（お母さんの意）　たちが集まって井戸端会議が繰り返されていた。<br />　そんな貧しい部落の中にあった林家はとりわけ目立つ家だった。丘の中腹に赤い屋根の大きな家と屋敷は周辺を威圧するようだった。居間にしていたオンドル、中の間、奥と表の座敷それぞれ一二畳はあり、オンドルの炊口にもなる大きな土間のある炊事場など大雑把な間取りだったが近辺の朝鮮人の家に比してもちろん、順安の日本人の家は多くは社宅や官舎だったので一きわ大きかった。また道路沿いの庭にはかなり大きな地下室が作られていた。林家にはポンプ式の井戸がありポンプで炊事場にも風呂場にも水が行くような水道管が設置してあった。<br />　順安面に住んでいる日本人の家には普通オンドルはなかった。その点、林家は朝鮮風と日本風を折衷した間取りだった。<br />　林家の東側は、京城と新義州をむすぶ京義国道に面しており国道側には長い板塀と門があった。国道は北にむかって上り坂になっていて、日に数回はとおるトラックは、わが家のまえでエンジンをふかし一段と大きな音をだして砂利道を砂挨をあげてのぼっていった。ときどき、日本人のトラック運転手が　「トラックの水をください」　といって立ち寄ることがあった。わが家をぬけると、すぐそこは大きな切りとおしになっていてそれを下りですぎると平らな畑と水田が続いていた。そして、家の西側の裏は、百メートルもいくとやはり京城と新義州をむすぶ京義本線　（鉄道）が走り、踏切があった。わが家は国道と鉄道にはさまれていた。踏切を渡るとすぐ普通江が流れていた。普通江はいつも黄河のように黄色に濁っていた。その濁った河べりでオマ二たちが砧をもって洗濯をしていた。夏には子供らは素っ裸で水浴びをし、冬には一面かちかちに凍った河の上でそり遊びやスケートに興じた。<br />　林家は四十本ほどのりんご畑に囲まれていた。リンゴ畑を丘の上までのぼると北側と西側が見渡すことができた。順安の集落がきれ北方に向けて京城と新義州を結ぶ京義本線と京義国道と大同江の支流になる普通江が、三本の縄をなうようにずっとつづいていて見渡すことができた。その平原に戦後平壌の国際空港にもなる順安飛行場の滑走路が出来たという。西側も普通江をはさんで、平原がつづいていた。<br />　普通江の向こうには、砂金をほりだすドレッジャーという砂金採取船（浚渫船）が三隻、四隻と年中地面をほりあげながら池を作り、膨大の砂利を後に残してすこしづつ進んでいた。ドレッジャーというのは小さなビルぐらいの大きさで、地をほりあげるバケットが連続していて砂をほりあげていた。砂の中から砂金をゆり分け水銀と結合させて採集する浚渫船だった。順安の砂金はとりわけ良質といわれた。通常は粟粒ほどの砂金を膨大の砂の中から、水銀アマルガムと結合させて採集していた。順安の砂金の中には、卵ほどの大きさの金塊が含まれていて、天覧に供された（天皇がごらんになること）と話題になった。ドレッジャーの中は、工場のようになってものすごい騒音と振動のなか、十数人の労働者が働いていた。<br />　林家から南側に三〇メートルほど下ると林家の農業倉庫があった。間口は二十間、奥行七間の高さは四間もある大きな農業倉庫だった。取り入れの秋ともなれば朝鮮人の小作人たちが牛車で米のつまった俵やら麻袋を運びこみ、高い天井にいっぱいにうめられていった。ときどきめずらしかったトラックが数台やってきてこの米俵を積み出していった。<br />　この農業倉庫は、晋司が農園を経営するなかで日本の米の相場にあわせて米の出荷を調節するために作られたものだった。集められた米は朝鮮人の口には届かず、直接日本に送られた。晋司が召集されていたとき、この倉庫の出し入れの采配は、すべて安田さんという朝鮮人の青年とチーネ　（お手伝いさん＝小娘という意）　を使ってハナがやっていた。<br />　その農業倉庫の前には、藁屋根のオンドル一間と炊事場の土間がある小さな朝鮮家屋があった。その朝鮮家屋は、林家が満州から移住してきた時、三年ほど居住したものだった。秋になるとオンドルの部屋には取り入れられた綿が実の付いたまま天井まで積み込まれ、二〜三人のオモニたちが終日、綿から実をはずす仕事をしていた。土間の方には、農業倉庫を管理する簡易事務所になっていて、安田さんの小さな机が置かれていた。机の上には安田さんの早稲田講義録がのっていた。安田さんは勉強家だった。土間には小作人に貸し出す脱穀機など農具の置き場所にもなっていた。<br />　晋司もハナも安田さんをたいへん気に入っていた。安田さんは順安の普通学校（朝鮮人の国民学校）をたいへん優秀な成績で卒業した。父親がいなかったので上の学校にはいかないで、普通学校を卒業したあと、林家で働くこととなった。とくに晋司が召集されている時は、ハナを助けてくれた。洋武が国民学校二年生になるまで安田さんはわが家で働いていた。洋武は近所の朝鮮人の子供とよく喧嘩をした。そのときもしばしば「それは武ちゃんが悪い」と叱かって、決して無条件に洋武の肩を持つようなことをしなかった。そのことを両親は洋武の教育のためにもよいことだと考えていたようだった。<br />　順安では五日ごとに定期市がたった。市の日には、林家から五百メートルぐらい南方のところから道の両側に露店がずっーと並んだ。<br />　市には何でもあった。魚や肉や野菜など山のようにつみあげられてオモこの売り子が掛け声を掛け合ってにぎわっていた。魚は太刀魚・たら・ほっけが多かった。五里（二十キロ）ほど西に行くとそこは黄海だった。黄海でとれた新鮮な魚が大量に市には並んでいた。バカチが山盛りにっみあげられていて、さかんに声をかけあって売っていた。バカチというのはひょうたんの一種で、日本のように徳利型にならずにスイカをまっ二つに切ってその中をくりぬいたかんじのもので、朝鮮では水汲みにもまたドンブリにも使っていたものだった。秋にはキムチの材料になる白菜や大根や唐辛子などが大きな山を作って売り出されていた。季節を通してチジミが売られていた。チジミは即席の竃が築かれて、鉄板の上に油を敷いて焼くやわらかなせんべいで、お好み焼きのような食べ物だった。チジミ売り場は定期市でもとりわけにぎやかだった。朝鮮の料理にはなんでも唐辛子がはいって辛いがそのお好み焼きも辛かったがおいしいものだった。<br />　ハナはチジミは子ども達に買って与えたが、朝鮮飴は絶対に買い与えなかった。真っ白い一口で食べられるような朝鮮飴を買ってくれと、洋武はしばしば座り込んではねだったが買わなかった。廃品回収をするくずやさんは、ビール瓶を持っていくと朝鮮飴を一つくれた。ハナは、ビール瓶を逆にして埋めて花壇のしきりにしていた。洋武はそのビール瓶を二本ほど抜いて飴と交換した。そのことを知ったハナは、子ども達を朝鮮飴を作るところに連れて行った。真っ黒い飴が柱のところに縛り付けられアポジ（お父さん）がその飴をひっぱったりのばしたりしていた。そのうちにアポジは手のひらにツバキをバッバッとつけてもむように引っ張ると真っ黒い飴は見る見るうちに白くなっていった。「あれをたべるのよ。おじさんのツバキがないと白くならないのよ」。ハナは実物教育をした。朝鮮飴を白くするのは当時から別の製法が使われていたが、市場に出てくる朝鮮飴やくず屋さんが交換する朝鮮飴はまだ非衛生的な製法から抜け出ていなかった。<br />　この市場に集まってくるオモ二たちは、買いこんだ荷物を頭に何重にも重ね、荷物が落ちないように腰をふりふり釣り合いを取って帰っていった。順安にはまとまったお店もなく、在留する日本人達もほとんどこの市場で買物をしていた。<br /><br />　順安には幼稚園も保育園もなかった。しかも、近所には日本人の家庭はなかった。洋武にとって近所の朝鮮人の子どもと遊ぶ以外なかった。そのなかで、この市に行きチジミを買ってもらうことが洋武にとって最大の楽しみだった。安田さんはそんな時、朝鮮人の売り子との通訳の役割を果たしていた。<br />　家には朝鮮人の小作人たちがたえず出入りしていた。日本語のできる小作人もいたが、たいていの小作人は安田さんの通訳が必要だった。たいへんやさしいおじいさんの小作人がいた。その老小作人は昔はヤンバンで土地もちだったが、日本人に騙されて土地を人手に渡してしまい小作人になってしまった。という話しを安田さんがしていたことがあった。小作人たちがわが家にってくると、たいてい家に上がることを遠慮した。<br />　ハナは「うちでは居間はオンドルしかないんだから遠慮なくあがりなさいね」とオンドルでたいていのことはすんでいた。おじいさんはオンドルに胡坐をかいてすわると長いキセルを取り出しておいしそうにタバコを吸った。<br />　ハナは、「オンドルにあぐらをかいてすわるとそのあぐらのなかにちょこんと洋武は座るのが<br />おかしくて」とはなしていた。私もこのおじいさんだけはなぜか気が許せるように感じた。<br />　ハナは小柄で家族にはやさしかったが、朝鮮人の小作人たちにはきびしかった。<br />　まだ晋司が出征していたとき、その老いた小作人が小作料として牛車で運びこんだ俵の数が三俵たりなかった。<br />　「三俵というと一人が一年分食べる量よ。家を出るときあったからといって倉庫に入れるときなければどこかでくすねたのでしょう」<br />　ハナと激しい言い争いのなか決着がつかず警察を呼んだ。出征兵士の家庭を守ることと日本人の告発を鵜呑みにして、その老小作人は「アイゴー」と泣きながら警察にひかれていった。しかし、京義国道のわが家にくる上り坂の事前に米俵が三俵落ちていたことが伝えられてこの小作人はすぐ釈放された。ハナはもどってきた老小作人にあやまらなかった。そればかりか「牛車にのって居眠りでもしていたのでしょう。もっと気をつけてくれないと」と叱り付けていた。<br />　幼い記憶だったが、小作人にたいする厳しさは通常のやさしいハナとはちがっていた。<br />　父晋司が除隊される頃には直接供出がはじまり倉庫に米俵が天井までたまることは少なくなっていた。それでも、農業倉庫には絶えず朝鮮人が出入りして米や雑穀が積みこまれていった。そして安田さんがやはりそうした人たちの采配をしていた。<br />
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    <title type="html">稚内市 「九人の乙女の碑」</title>
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    <updated>2008-07-04T08:15:35+09:00</updated>
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          <summary type="html"> スカッパーさんより、テキスト化した碑文とともに、碑の写真をお送りいただきました。 2005年7月にご友人と北海道稚内から礼文島にご旅行されたときに稚内港の側の高台でご覧になった 樺太での 悲劇の碑が忘れられず 残しておられたそうです。 メロウ伝承館 スタッ ...</summary>
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        <![CDATA[
        　スカッパーさんより、テキスト化した碑文とともに、碑の写真をお送りいただきました。<br />　<br />　2005年7月にご友人と北海道稚内から礼文島にご旅行されたときに稚内港の側の高台でご覧になった　樺太での　悲劇の碑が忘れられず　残しておられたそうです。<br /><br />　メロウ伝承館　スタッフ<br /><br />-------------------------------------<br /><br />碑文<br /><br />戦いは　終わった　それから五日　昭和二十年八月ニ十日ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした　その時突如日本軍との戦いが　始まった　戦火と化した真岡の町　その中で交換台にあった九人の乙女等は　死を以って己の職場を守った　窓越しに見える砲弾さく烈　刻々迫る身の危険　今はこれまでと死の交換台に向い　「皆さん　これが　最後です　さようなら　さようなら」の言葉を残して静かに青酸カリを飲み　夢多き若き花の命を絶ち職に殉じた<br />戦争は再びくりかえすまじ　平和の祈りを込めて尊き九人の乙女の霊を慰む<br />　昭和三十八年八月十五日<br /><br />　　　　　　　　　　稚内市長　　　　　浜　森　辰　雄<br />　　　　　　　　　　　　寄贈　　　<br />　　　　　　　　　　　　　東京都　　　本　島　新<br />　　　　　　　　　　　　　札幌市　　　上田　伶子<br /><br /><a href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/photos/825.jpg" target="_blank"><img src="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/thumbs/825.jpg" align="left" alt="" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><a href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/photos/826.jpg" target="_blank"><img src="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/thumbs/826.jpg" align="left" alt="" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /> 殉職なさった九人は下記の方々です。<br /><br />　高石ミキ（24）<br />　可香谷シゲ（23）<br />　吉田八重子（21）<br />　志賀晴代（22）<br />　渡辺照（17）<br />　高城淑子（19）<br />　松橋みどり（17）<br />　伊藤千枝（22）<br />　沢田キミ（18）<br /><br />
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    <title type="html">札幌護国神社・彰徳苑の碑より・第二十六聯隊旗奉焼</title>
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          <published>2008-07-03T07:24:05+09:00</published>
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          <summary type="html"> 歩兵第二十六聯隊旗奉焼之碑 建 立 昭和六十一年（一九八六） 九月十四日 建立者 歩兵二十六会 旭川歩兵第二十六聯隊は、明治三十二年（一八九九）十一月二十五日、札幌月寒において創立され、明治三十三年十一月十五日、旭川第七師団創設に伴い、聯隊本部が開庁し ...</summary>
              <content type="html">
        <![CDATA[
         <br />　歩兵第二十六聯隊旗奉焼之碑<br /><br />　建　立　昭和六十一年（一九八六）　九月十四日<br /><br />　建立者　歩兵二十六会<br /><br />　旭川歩兵第二十六聯隊は、明治三十二年（一八九九）十一月二十五日、札幌月寒において創立され、明治三十三年十一月十五日、旭川第七師団創設に伴い、聯隊本部が開庁し、月寒より移転した。<br />　明治三十三年十二月二十二日宮中に於いて軍旗を親授し、同年二十六日旭川練兵場に於いて聯陽に旗が授典された。<br />　明治三十六年（一九〇三）十月二十五日、清國守備隊要員として聯隊から一個中隊が山海関に派遣。明治三十七年の日露戦役では乃木大将率いる第三軍の予備隊となり、松樹山攻撃に参加、二〇三高地及び赤坂山の戦闘は壮絶を極め、聯隊長吉田新作中佐は壮烈なる戦死を遂げ、将枚以下生存わずか六名という激戦であった。<br />　歩兵第二十六聯隊歴史の特記すべき戦いは、昭和十四年（一九三九）勃発したノモンハン事件である。聯隊長須見新一郎大佐率いる歩兵第二十六聯隊は、ハイラル駐屯の第二十三師団（師団長小松原道太郎中将）の隷下に編入きれ、ハイラルから将軍廟までの二百十六キロ、それも炎天下の大平原を完全武装にて六日間で突破し、ハルハ河・ホルステン河を渡河し、ソ連と壮烈なる死闘が繰り返されたのである。<br />　第二十三師団が壊滅的打撃を受け、各部隊が全滅するなか、歩兵第二十六聯隊は、相当数の被害を受けつつもフイ高地を死守したのである。後に歩兵第二十六聯隊はもっとも長い期間戦い、大きな損害を出し「悲劇の須見部隊」と呼ばれたのである。<br />　大東亜戦争では、千島防衛強化のため北千島幌延島に上陸し防衛を担当していたが、昭和十九年、第七十七師団と交代、北海道東地区防衛のため本道に帰還し帯広に駐屯、昭和二十年八月十七日、ソ連軍が樺太に侵攻してきたため、第五方面軍の極秘至急電により歩兵第二十六聯隊は札幌月寒に移駐、九月十日、月寒神社境内林間において軍旗奉焼し聯隊の歴史の幕を閉じたのであった。<br />　爾来四十一年、聯隊に縁りある者相集い、軍旗の武勲と栄誉を永く後世に伝え、これを顕彰するために、この碑を建立したのである。<br /><br /><a href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/photos/823.jpg" target="_blank"><img src="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/thumbs/823.jpg" align="left" alt="" /></a>
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    <title type="html">歩兵第五十九聯隊 パラオ作戦外史抄・編注</title>
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    <updated>2008-06-26T08:42:30+09:00</updated>
          <published>2008-06-26T08:42:30+09:00</published>
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          <summary type="html">編注 ? NPO法人日本パラオ協会では、昨平成19年3月24日から6月17日まで、靖国神社遊就館1階企画展示室において、「戦跡パラオ展−パラオに散った英霊たちー」（パラオの歴史と英霊展）という特別展を開催し、多くの参観者達に深い感銘を与えたのであるが、パラオ共和 ...</summary>
              <content type="html">
        <![CDATA[
        編注<br /><br />?　NPO法人日本パラオ協会では、昨平成19年3月24日から6月17日まで、靖国神社遊就館1階企画展示室において、「戦跡パラオ展−パラオに散った英霊たちー」（パラオの歴史と英霊展）という特別展を開催し、多くの参観者達に深い感銘を与えたのであるが、パラオ共和国のトミー・E・レメンゲサウJr大統領は次のような同展に対する挨拶文を寄せておられる。「この度は、靖国神社及びNPO法人日本パラオ協会他関係の皆様方の御尽力により、「パラオの歴史と英霊展」が靖囲神社の境内にて開催される運びとなりましたことは、パラオ共和国として誠に喜ばしいことであり、厚く御礼申し上げます。<br />　一九二〇年、日本はミクロネシア地域の統治を国際連盟により委任され、その行政本部をパラオに置きました。それからの二十五年間、日本はパラオに産業技術と教育制度をもたらし、パラオの文化発展に寄与されました。一方で、第二次世界大戦以前よりパラオには日本軍が常駐し、このために一九四四年〜一九四五年にパラオも戦場になりました。今もパラオには、多くの日本兵が静かに眠っています。<br />　第二次世界大戦後、パラオは一九九四年十月の独立までの間、アメリカ合衆国による国際連合の信託統治下に置かれました。それまでの日本の産業は失われましたが、今も日本の言葉や文化がパラオ文化の一部として残っています。<br />　このように、光と影の両面があったパラオと日本の関係ですが、両国の長く深い関係は非常に重要なことと考えており、この友好関係が今後も長く続くことを厳っております。<br />　この展示会を通じて、日本の多くの人達がパラオのことをお知りになり、是非パラオにお越し下さいますよう、希望いたします。」<br /><br />?　パラオで今も愛唱される歌―――昭和十九年九月十五日に米軍がペリリユー島に上陸して以来、二カ月余にわたる日本将兵の死闘に思いを馳せるため、パラオでは日本の国花「桜」に慰霊鎮魂の誠を託して「ペ島の桜を諾える歌」を作った。この曲は一番から八番までの構成で、今でも島民に愛唱されている代表作でもある。また、この曲のほかに日本でもよく知られている歌に「酋長の娘」「パラオ恋しや」などがあり、日本とパラオ両国民の心の交流を示している。<br /><br />　「ペ島の桜を琴える歌」<br />　　　　作詞　オキヤマ・トヨミ<br />　　　　　　　ジョージ・シゲオ<br />　　　　作曲　トンミー・ウェンティ<br /><br />一　激しく弾雨が　　　　　　　　降り注ぎ<br />　　 オレンジ浜を　　　　　　　　血で染めた<br />　　 強兵（つわもの）たちは　　　皆散って<br />　　 ペ島（しま）は総て　　　　　墓となる<br /><br />二　小さな異国の　　　　　　　　この島を<br />　　 死んでも守ると　　　　　　　誓いつつ<br />　　 山なす敵を　　　　　　　　　迎え撃ち<br />　　 弾（たま）射（う）ち尽くし　食糧（しょく）もない<br /><br />四　日本の桜は　　　　　　　　　春いちど<br />　　 見事に咲いて　　　　　　　　明日は散る<br />　　 ペ島の桜は　　　　　　　　　散り散りに<br />　　 玉砕（ち）れども武勲は　　　永久（とこしえ）に<br /><br />八　戦友遺族の　　　　　　　　　皆さまに<br />　　 永遠（いついつ）までも　　　かわりなく<br />　　 必ず我等は　　　　　　　　　待ち望む<br />　　 桜とともに　　　　　　　　　　皆さまを<br /><br />?　米太平洋艦隊司令長官：ミッツ元帥は、自著『太平洋海戦史』の中で、ペリリユー戦について「ペリリユーの複雑極まる防備に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率（約40％）を甘受しなければならなかった。既に制海権、制空権を持っていた米軍が、死傷者合わせて一万人を超える犠牲者を出してこの島を占領したことは、今もって疑問である」と書いでおり、現在ペリリユー神社境内にある詩碑には「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るために日本軍人が、いかに勇敢な愛国心を持って戦い、そしで玉砕したかを伝えられよ」太平洋艦隊司令長官C．W．こミッツ、と刻まれている。<br /><br />（写真・上段　平和の礎（コロール島）　下段　５９ｉ連隊旗）<br /><br /><a href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/photos/817.jpg" target="_blank"><img src="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/thumbs/817.jpg" align="left" alt="" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><a href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/photos/816.jpg" target="_blank"><img src="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/thumbs/816.jpg" align="left" alt="" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />　−完−<br />
        ]]>
      </content>
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    <title type="html">昭和の絵手紙 あとがき</title>
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    <updated>2008-06-16T07:38:12+09:00</updated>
          <published>2008-06-16T07:38:12+09:00</published>
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          <summary type="html"> ―――あとがき――― 若い時この地半田で、地震又は空襲で学徒を中心とした多くの人々がお亡くなりになりました。あの目あの時の様を忘れてはならじと、数年前初めて鎮魂の思いを込めて描いた絵手紙が、江川の堤で友のなきがらを次々と戸板で運ぶ女子挺身隊の姿です。沢 ...</summary>
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        <![CDATA[
        <br />　―――あとがき―――<br /><br />　若い時この地半田で、地震又は空襲で学徒を中心とした多くの人々がお亡くなりになりました。あの目あの時の様を忘れてはならじと、数年前初めて鎮魂の思いを込めて描いた絵手紙が、江川の堤で友のなきがらを次々と戸板で運ぶ女子挺身隊の姿です。沢山の若い命がここで絶たれました。（昭和19年12月7日）<br />　内地、外地の戦争で、原子爆弾で、多くの犠牲者が出ました。時が移り世代も代わり、この様なことが風化しようとしております。昭和初期以降戦後までの時代と現在の豊かな時代とは余りにも断層が大きく思われます。<br />　自ら体験したこと、人様からお聞きした出来事を、心のファインダーに写った一駒ひとこまの絵手紙として描きました。せめて御霊への慰めと、再びこの様なことが起こらないように、次の世代への語りつぐべきお話として、ご高覧頂ければ望外の幸せでございます。<br />　皆々様のご健康とご多幸をお祈りし、今日あることを感謝して<br /><br />　間瀬　時江<br /><br /><br />　作者略歴<br /><br />　1923年　　愛知県半田市乙川に生まれる。<br />　1940年　　愛知県立半田高等女学校卒業<br />　1943年　　中島飛行機製作所半田工場に勤務<br />　1944年　　12月7日　東南海地震<br />　1945年　　7月24日半田空襲<br />　1948年　　結婚し半田市亀崎に居住<br />　1982年　　小西美代子（創画会）に師事<br />　1989年　　松井和弘（創画会）に師事<br />　1995年　　星野哲弘（創商会）に師事現在に至る<br />　1998年　　半田市民展　奨励賞<br />　1999年　　半田市民層　市長賞<br />　2000年　　文化協会賞<br />　2002年　　半田市民展　市長賞<br /><br />　−−−完−−−<br /><br />
        ]]>
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    <title type="html">Re: 東京の小学生が見た「ニ、ニ六事件」・最終回 大正生まれの Ｙ</title>
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    <updated>2008-06-15T08:36:24+09:00</updated>
          <published>2008-06-15T08:36:24+09:00</published>
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          <summary type="html"> ３月になって （３）父は夕刊を母や私、ねえやさんに声を出して読んで聞かせた。 （４）その後で、父が云った。「今までのクーデターと同じ事で天皇をお味方に頂いて先ず内閣の設計図を作り、首班を決めて青年将校が４−５名で首班候補の私邸に行き、本人の就任確約 ...</summary>
              <content type="html">
        <![CDATA[
        <br />　３月になって<br /><br />　（３）父は夕刊を母や私、ねえやさんに声を出して読んで聞かせた。<br /><br />　（４）その後で、父が云った。「今までのクーデターと同じ事で天皇をお味方に頂いて先ず内閣の設計図を作り、首班を決めて青年将校が４−５名で首班候補の私邸に行き、本人の就任確約と主要ポストにつくべき要人方の確約をもらう。この手順を踏まずして事件を起こす将校など居るものか。然も首都を守る第一師団の第一連隊と第三連隊の士官であれば大尉で３０歳、小、中尉で２４−５歳とはいえその辺の分別は充分にある筈だ。結局年寄りに騙されたわけだ。いつもこれだ」<br /><br />　　　一言で言えば「騙されたのは兵ではなき、若手将校が老獪な将軍どもに騙された」ということのようだ。<br /><br />　（５）この事件の首謀者といわれている安藤輝三大尉について、Ｍ学園のクラスメイトの間でも議論が沸騰した。（この学校は創立大正13年。大正デモクラシーの落とし子とも云われている。『個性尊重・自主自立・自由平等』を教育理念として掲げていたので、父兄のなかには、新聞記者、大学教授、外交官、大手商社の重役、陸軍の高官ありで、家庭で、いわゆる「事件の裏話」に接する機会が多かったようだ。）<br /><br />　　　クラスメイトの話を総合すると、安藤輝三大尉は<br />　　　・ 中尉のころから陸軍大学に推薦されるような逸材であった。<br />　　　・ しかし、大学には関心を示さず、政治経済を熱心に勉強し、大物政治家の門を叩いたりしていた。<br />　　　・ 部下から非常に慕われており、いろいろ相談を持ちかけられていた。<br />　　　・ そして、常日頃、部下の兵士から農村の疲弊について聞かされていた。<br />　　　・ 将官を私邸に訪ね、兵士の実家の実情を説明して、「地方財政の改革に手を打つべき」との心中を吐露していた。<br />　　　・ その一途な気持ちを、その将官に利用されてしまった。<br /><br />　　　―――すなわち、私邸を訪ねてきた彼に<br />　　　将軍は、待っていましたとばかり自宅の客間で青年将校と抱き合い、酒を酌み交わし｢頼りになるのは貴様、安藤！貴様しか居らぬのだ。同士を集めよ。○○大佐とよく相談するように。××少将とは来週会合があるので貴様の話を充分説明し、承知してもらう所存なのでーーー｣と、連絡をとるべき将官の名前・時期などを述べた。さらに「特に首班になって頂く方のご承諾については、よくよく閣下方のご意見を拝聴するように」などと話したようだ。<br />　高価な土産を与え、帰るときはタクシーを呼んでやった。<br />　最後に「○○閣下とのつながりだけは例え計画が失敗し拷問にあってもいうなよ、云えば貴様を射殺し、俺も死ぬ」と釘を刺したーーーという話もあるようだ。<br />―――とのことである。<br /><br />　　　しかし、結局、この青年将校のみが死刑になり、将軍やその参謀の、大佐、中佐は満州や北支への出征（左遷）だけで済むのである。<br /><br />―　完　―<br />
        ]]>
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  <entry>
    <title type="html">『ねえやさん』の思い出 大正１４年生まれのＹ</title>
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    <updated>2008-06-13T08:17:45+09:00</updated>
          <published>2008-06-13T08:17:45+09:00</published>
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          <summary type="html"> どこの家でもと云うわけではないが、当時の阿佐ヶ谷（東京都杉並区)では、子供の足で徒歩15分以内の地域では大抵、女中さんがいて、『ねえやさん』と呼ばれていた。私の家では、大伯父のところから下げ渡しがあり、私が5歳から16歳になるまでの間、『ねえやさん』 ...</summary>
              <content type="html">
        <![CDATA[
        <br />　どこの家でもと云うわけではないが、当時の阿佐ヶ谷（東京都杉並区)では、子供の足で徒歩15分以内の地域では大抵、女中さんがいて、『ねえやさん』と呼ばれていた。私の家では、大伯父のところから下げ渡しがあり、私が5歳から16歳になるまでの間、『ねえやさん』がいたように思う。<br />　最初の方に縁談があり、辞めることになったが、引継ぎでその妹さんが上京したので、暫くの間、（たぶん一年くらいと思うが）我が家に『ねえやさん』が二人という贅沢な時代が出現した。成人してはじめて知ったことだが、『ねえやさん』というのは、家庭が貧しく、家で面倒が見切れないから来るのではなく、標準語を覚えるため、都会の生活を体験するため、料理を覚えるため、ミシンを使う「洋裁」を習うため、礼儀作法を身に付ける為、というのが目的だったようだ。<br />　行った先の家では、掃除洗濯、風呂焚き、料理の手伝い、皿洗い、お使いなどをさせられた。その対価として、月々の給金をもらい、盆暮れにはボーナス代わりに和服の反物などを貰った。さらに、洋裁学校の夜学に通わせてもらったりもした。私は当時5歳から16歳くらいで、父は会社ではまだ主任程度の地位であったが、女中を雇うということは、別に贅沢なことではなく、大手企業で働くサラリーマンとしては、ごく普通のことであった。<br />　戦後一家は兵庫県に疎開し、私一人が焼け残った東京に、一人暮らしを始めたが、まず困ったのは主食の米だった。そこで縁をたどって、新潟県直江津にある『ねえやさん』の実家を訪ねた。その時のいでたちだが、大型のリュックサックを背負い、手にはボストバッグを提げていたように思う。『ねえやさん』の実家はかなり辺鄙なところで、直江津からバスで40分、更にそこから徒歩で30分と云うところだった。ところが着いて見てビックリした。堂々たる冠木門に丈の高い木の垣根に取り囲まれた、300坪以上はありそうな大邸宅だったのである。お初にお目にかかったお父さんに、丁重に挨拶し、心ばかりの土産を渡し、四方山の話に時を忘れた。夕食には山海の珍味が並び、久しぶりに鱈腹飯が食えた。いよいよ就寝の時間になると、お父さんから『ねえやさん』に「お前、今夜は座敷で”、おぼっちゃま”と一緒に寝て差し上げなさい」という嬉しい言葉。その座敷は、なんと16畳もあり、床の間は勿論、大きな違い棚があり、押入れはと見ると、全部反対側に作られているのだった。布団に入ると、あり難いことに、足先に置炬燵が置かれていたが、その他にも部屋の奥に大きな火鉢まであり、私にはふつうの家と云うより、高級旅館のように感じられた。一方自分はと見ると、終戦直後の昭和21年のことでもあり、背広もなく、着古しの国民服姿で、自分がみすぼらしく見え、大変恥ずかしかった。一晩泊めてもらい、翌朝8貫目（約30キログラム)の白米を頂き、帰路についたが、『ねえやさん』が、わざわざバス停まで送ってくれた。しかも近道を通ってくれたので、たった20分で着いた。生憎バスが遅れたので、それを利用して、20分位のあいだ、昔話に打ち興じた。あとで思ったことだが、自分は子供のころ、こんな豪農のお嬢さんを前にして「ねえや!!なんだよ、これは！」などと怒鳴りつけたりして、ほんとうに申し訳なかった、とつくづく思った。<br /><br />　テキスト作成　Kazuo<br /><br />
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    <title type="html">父から聞いた「関東大震災の思い出」 大正１４年生まれのＹ</title>
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    <updated>2008-06-09T07:15:23+09:00</updated>
          <published>2008-06-09T07:15:23+09:00</published>
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          <summary type="html"> 父は震災の前年、大正11年に母と結婚、中央線大久保駅の近くに居を構えた。 母は当時まだ18歳のうら若き娘であった。震災当日、父は勤め先であるM社のある丸ビルの六階でちょうど食事を始めようとするところだった。ここは会社の食堂になっていた。 ここで未曾有の ...</summary>
              <content type="html">
        <![CDATA[
        <br />　父は震災の前年、大正11年に母と結婚、中央線大久保駅の近くに居を構えた。<br />　母は当時まだ18歳のうら若き娘であった。震災当日、父は勤め先であるM社のある丸ビルの六階でちょうど食事を始めようとするところだった。ここは会社の食堂になっていた。<br /><br />　ここで未曾有の大震災に遭遇した父の話は、歳の行かない子供にとっては驚くことばかりだった。<br /><br />　まだその年の4月に竣工したばかりの丸ビルは、当時の最新技術を結集して三菱地所とフラー社が共同で建設したもので、見るからに頑丈そうな9階建て（地下をいれて）の近代的なビルだった。その大きさ、設備は東洋一と持て囃された。それが大揺れに揺れたばかりか、最初のひと揺れで、まずカレーの皿とフォークがテーブルから床に落ちた。さらに10分後に襲った大揺れで、この大ビルが胴震いし、外壁の化粧レンガのほとんどが、雨のように地面に落下したという。<br /><br />　ビルの住人は慌てふためき、この地震から逃れようと、階段を上る人、降りる人でごった返し、踊り場でもつれ合い、折り重なって、各階ごとに軽傷者も出た。当日は、その後も何度も揺り返しが来たが、歩いて東京駅まえの丸の内から大久保の自宅へ戻った。残された家族はどうかと見ると、母は近所の人たちと一緒に、森の中に蚊帳をつり、茣蓙（ござ）の上に敷いた布団の上で、ブルブル震えていたそうだ。母などまだ、18の小娘でさぞかし怖かったことであろう。<br /><br />　交通機関も大きな痛手を受け、その後一ヶ月間は電車も止まったまま。仕方なく毎日、丸の内の会社まで、歩いて通勤した。会社から証明書を書いて貰い、それを提示して、地下室でなにがしかの食料を受け取り、リュックに詰めて背負い、鉄橋の上も足元がふらつくのを我慢して歩き、家へ着いた時はもうあたりも暗くなっていた。こういう日々が何日も続くのでまるっきり仕事にならなかったらしい。<br /><br />　関東大震災は9月1日の一日だけだと思ったら、大間違いで、二十日くらいは毎日のように、大揺れが来て、箪笥から花瓶や本がバラバラと落ち、家では怖くて安眠できなかったと云う話だ。　<br /><br /><br />　テキスト作成者　　Kazuo（記録提供者の弟）　
        ]]>
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    <title type="html">西埼玉地震 地震記録編集報告書</title>
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    <updated>2008-05-20T08:06:12+09:00</updated>
          <published>2008-05-20T08:06:12+09:00</published>
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      <name>kousei3</name>
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          <summary type="html"> はじめに この記録は、埼玉県本庄市在住の 清水義信様が、小学校一年生のときに経験された「西埼玉地震」に関する記録を県内外の自治体や気象台などから集め、それに基づいて作成された「地震記録編集報告書」です。 また、清水さまは、それらをもとに作成された「 ...</summary>
              <content type="html">
        <![CDATA[
        　はじめに<br /><br />　この記録は、埼玉県本庄市在住の　清水義信様が、小学校一年生のときに経験された「西埼玉地震」に関する記録を県内外の自治体や気象台などから集め、それに基づいて作成された「地震記録編集報告書」です。<br /><br />　また、清水さまは、それらをもとに作成された「地震が起きたときの心得」等を含め、合わせた小冊子を作成、関係方面に配布しておられます。<br /><br />　ここに、その一部をご本人のご了解を得て掲載させていただくものです。<br /><br />　メロウ伝承館スタッフ　Kousei3<br /><br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br /><br />　地震記録編集報告書<br />　（熊谷気象台）北関東地震（前橋気象台）宛<br /><br />　（1931）一昭和6年9月21日午前11時20分頃突如発生した大地震について、記録の編集を別紙により作成を致しましたので、災害時に貴下の参考にして頂ければ有り難いと思います。先ずは報告まで、不慣れな私ですが不備な点が有りました時は、お許し下さいませ。今後とも宜しくご指導ご鞭捷の程をお願い致します。<br /><br />　　　平成19年8月5日<br /><br />　編集者　埼玉県本庄市　清水義信<br /><br />　西埼玉地震記録を編集に当たり（参考資料）この趣旨は申すまでも有りませんが、災害は忘れた頃にやって来るものと言はれていますので、普段から心の準備をして頂ければあり難いと思い、後世の皆様に残して置く為に出筆させて頂きました。<br />　さて、この地震は75年前に起きた児玉町の大地震だと思っていましたが熊谷気象台へ記録を探しに行ったときに恥ずかしながら始めて西埼玉地震（前橋気象台では北関東地震）の名前を知りました。大正12年9月1日に発生した大地震のことは良く知っておられる方が多いと思われますが、西埼玉大地震、震度（6．9）が昭和6年9月21日午前11時20分頃発生した事は覚えていない方が大勢居られるものと思います。そこで私は小学1年生の時にあった地震の事を、止むに止まれずに各地の官公署等に記録を探しに東奔西走して、新事実を発見する事が出来ました。それは北関東平野の利根川、荒川、緑断層地帯の地下約10kmの空洞化の陥没による引き金と考えられます。別紙の記録通りで有りますが、簡単に述べさせて頂きますと、当初震源地は深谷市南方小川町の仙元山付近であると記録して有りましたが、小川町では後で訂正し深谷市の西部と改められ地図で見ますと児玉町が震源地であったと考えられ、死者、全壊、半壊等を検討するとその数量が最高であった事で証明されています。皆様災害が起きた時の対策を忘れずに考えておいて下さい。<br /><br />　参考まで（私の処では皆様の為に少しでも役立つように最小限度の（救助用品、食料品、医薬用品、作業用品等を）準備して有りますので、何時でも遠慮なく避難して来て下さい、お待ちしております。　最後に成りましたが埼玉では危機管理体制ができていないように思われますので早く作成して頂きたいものですね。<br /><br /><br />　児玉町の大地震について<br />　<br />　私が小学一年生の頃でした。先生に連れられて町の東の山王山へ写生に行き、11時20分頃下の道路に降りた時、突然大地震が発生して50センチ位の亀裂が走り数人の生徒が転げ落ち、大急ぎで引きずり上げ桑の株にしがみ付き、長い間静まるのを待って、帰校し様としたが約200メートル位の距離にも係わらず、途中には家屋の倒壊や火災などで通行出来ずやっとの思いで田畑の中を必死に逃げて家に帰る事ができました。畑に柱を立て蚊帳をつり寝たが、一晩中大きな揺れが連いて眠れずに夜が明けて見ると、犠牲者や負傷者が多勢出て町中歩けず、目を背ける程の地獄の底の様で、テレビで見た阪神淡路大震災の光景と同様でした。（皆さん児玉の大地震を知る方が、殆ど知らない方が多いいと思います。）<br /><br />　今後いつ大地震が起こるか知りませんが、普段からその心構えをして頂きたくお願いもうしあげます。（児玉町の大地震は若しかすると直下型であった物と考えられます。）<br /><br />　　　　　　平成19年3月10日　Y，S<br /><br /><br />　児玉町唯一の写真発見<br /><br />　昭和6円9月21日に児玉町を突然襲った大地震に就いての、記録等が何処を捜しても保存してないと諦めていましたが、唯一枚の写真が偶然にも私の家の近くの高橋孝さんの家にありました。<br />　その理由は、叔父の高橋寛衛門様が児玉町役場の兵事係に勤務して居た時に写した写真です。それを昭和22年頃奥様が保存して置いた物を頂いたのであります。児玉町に於いては尊い宝物であるので永久に保存して頂きたいと願っております。<br />　（下記の写真は、児玉町小学校通りの物であります。）<br /><br /><a href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/photos/753.jpg" target="_blank"><img src="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/thumbs/753.jpg" align="left" alt="" /></a><br />
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    <title type="html">アジア鎮魂の旅・その１３</title>
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    <updated>2008-05-16T09:04:41+09:00</updated>
          <published>2008-05-16T09:04:41+09:00</published>
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      <name>kousei3</name>
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          <summary type="html"> 待望した復員の日−２ 砂浜に丸太の柱を立て ニッパ椰子の葉で屋根を葺き それに乾燥させた野草を敷き詰めた 家畜小屋を連想させる様な我が家でも、之で永遠の見納めに成るのか！・・・と思えば些か感慨深いものがある。 この様な我が家でも 「 発つ鳥水を濁さず 」 ...</summary>
              <content type="html">
        <![CDATA[
        <br />　待望した復員の日−２<br /><br />　砂浜に丸太の柱を立て　ニッパ椰子の葉で屋根を葺き　それに乾燥させた野草を敷き詰めた　家畜小屋を連想させる様な我が家でも、之で永遠の見納めに成るのか！・・・と思えば些か感慨深いものがある。<br />　この様な我が家でも　「　発つ鳥水を濁さず　」の故事に倣って清掃し、干し草のベットに敷いてあった万年パンツにする筈だった麻袋も雑草といっしょに焼却した。<br />　懐かしい故郷への復員を一日千秋の思いで待ち望んでい乍ら　病に倒れ、不帰の客となった四国出身のＫ氏の眠る　墓前に全員が整列して別れを告げた・・・　誰一人見守る者もいない南瞑の孤島に、彼一人　置き去りにして帰る我々は後ろ髪を引かれる思いであり、深い悲しみの中　冥福を祈って　多恨村を後にしたのだった。<br />　我々の血と汗と涙で切り開いたブッシュの道、幾度かの食料受領で通った泥濘の道も、愈々帰国となれば、足も軽やかになる。　追分村　経由で宝港に到着したのは夕方になった。久し振りに一夜を過ごす宝港に来て見れば、　軍司令部の百坪余も有りそうな建物や　膨大な付属建物も有り、また港の近くでは古惚けた自動車まで走っている。<br />　凡そ 我々中央を外れた場所に住む最下級兵士達は想像もしなかった　この別世界を     垣間見て　多くの者は其の違いの大きさに腹立たしさを感じたのだった。<br />　宝港におけるレンパン島最後の野営も興奮して眠られずウトウトしながら朝を迎えた。<br />　沖には既にアメリカのリバテー船が停泊している。食事を済ませ一夜の後片付けを終了し、逸る心を抑えながら桟橋に集まり、此処からは大発に分乗し,リバテイ船に横付け　して　乗り移るのであるが、リバテー船に近付くと、驚く事に、タラップは無く、ただ縄梯子が四カ所に吊り下げられているだけである。<br />　如何に1万?クラスの大型船とは云え　波に揺られており、一方　木の葉のように　大きく揺れる大発から　この縄梯子を使って　よじ登り、乗り移る芸当は　健康体であっても難しい。　まして栄養失調の我々にとっては尚更　危険極まるものであったが、　　「　此処で落ちてたまるか！　」と満身に力を込め、　「　ヨイショ！　ヨイショ！　」　の掛け声にタイミングを合わせながら一段、一段と登りつめた。<br />　どっこいしょ、と最後の一段を登り詰め　、甲板に足を踏み込むと同時に、「今度こそ内地へ一直線に帰れる！・・・」という安堵感から一気に体中の力が抜け、焼け付く様な甲板に座り込んでしまい、仲間同士は　無言のうちに手を握り喜び合った。<br />　私は一旦船倉に行き、之から内地へ到着するまで夫々が寝起きする場所を確認して、僅かな荷物を置くと、直ちに蒸し風呂のような船倉から甲板へ飛び出した。　同じ乗船でも　行き先不明のまま　シンがポールを出港した時と違い、皆の顔は本当に明るい。<br />　　　「　港シャンソン　」を口ずさんでいる者もいた。<br />　甲板から　リオウ諸島の上空に　沸き上がっている入道雲を眺めながら　幾多の苦難を乗り越えて来た感慨を込めて誰かが唄いはじめた。<br />　　　　　　さらばレンパンよ　　また来るまでは<br />　　　　　　しばし別れの　　　　涙をかくす<br />　　　　　  恋し懐かし　　　　　　あの島見れば<br />　　　　　　椰子の木かげに　　十字星<br />　並み居る皆の顔は涙で　くしゃくしゃになり乍らも　拭く事を忘れ大合唱となった。<br />　リバテイ船への乗り込みが完了したのは、乗船開始から数時間を要し、船が錨を上げたのは、陽も大分　西に傾いた夕方に成っていた。<br />　今にも沈まんとしている太陽が波に反射して眩しい！　、そんな中　船はレンパン島を出港し、南シナ海を経て　日本へ向かう永い航海が始まった。昭和二十一年六月十四日　生涯忘れられない日である。<br />　平穏な航海を続ける事一週間目に　天候の変化を予知する様な雲行きに不安を感じ、状況説明を求めたところ、船長側から「　小型台風の発生情報をキャッチした為　之を避けるべく　西に航路を変更して避難行動中である　」　と言う説明を受けた。然し波風は時間と共に其の激しさを増し、荒れ狂う波は一万?以上はあろうと思われる大型船で有りながら、木の葉の如くローリング、ピッチングを繰り返し、大きな波が来ると喫水十?以上ある船の甲板から波に手が届く程傾く、その恐怖を感じながらの数時間こそ　全員の心は<br />　　「　折角　拾った命ではあるが之で駄目か・・・」　<br />と観念しつつ一時も早く台風圏内から脱出　出来る様に・・・と祈ったのである。<br />　我々の仲間達は一部を除き　多くは　海上での暴風を経験した事が全く無い山国育ちである為　今にも転覆するのでは・・・・と思うような　台風の恐ろしさを初めて知った尊い経験であった。<br />　台風も去り、明けても　暮れても空と海しか見えない単調な船旅が続く中で、我々の心を癒してくれたのは沖縄の東方を北上中　デッキに上がれば、昼はイルカの群れが船に戯れる如く泳ぎ回り、また飛び魚がデッキに飛び込んで来るような珍しい光景を、　夜は船の舳先から尾を引くように光る夜光虫の光などを眺める事が楽しみであった。<br />　北上を続けた船は、愈々豊後水道に入って来た。　其の頃ようやく「　本船はこの先、瀬戸内海に入り　広島県の宇品港に入港する・・・・・　」との連絡があった。　デッキから見る小島には　松ノ木が目に入り、確かに日本だと実感する事が出来た。<br />　また、近づいて来た漁船の二人は夫婦だろうか？　、我々に手を振ってくれた。「　やっ、日本人の女性だ！・・・・　」と　皆口々に叫びながら、感激の涙を流したが、お互いに顔を見合わせ、何の涙か分からない。　ただ、照れ隠しの為に笑い、はしゃいだ。　途中台風に遭遇したとは言え　約半月間に亘る航海も無事に終わり、リバテー船は宇品港に入港した。　しかし、検疫準備の為直ぐには上陸できず、船上から街の明かりを眺めつつ逸る気持と興奮の中で一夜を過ごした。<br />　此処で我々復員者に対して、　石黒貞蔵　南馬軍司令官からのメッセージを紹介する。<br /><br />　「　今ヤ諸氏、洋々タル希望ニ満チテ、新生ノ門出ニ旅立タントス。諸氏ノ歓喜、正ニ言語ニ絶スルモノニアルベシ。本職モ而諸氏ノ心中ニ思イヲ致シ、更ニ諸氏ノ帰還ヲ鶴首シアル　郷党ヲ偲ビテ、衷心ヨリ祝福ノ意ヲ呈セザルヲ得ズ。　然リ而シテ諸氏ノ克ク知ラルル如ク、邦家ノ現況ハマコトニ多事多端ニシテ、ソノ諸氏ニ待ツトコロ而甚ダ大ナリ。邦家ノ再建ハ、真ニ国ヲ思イ自ラソノ礎石タルヲ以ッテ任ズル忍苦ノ士ニシテ、始メテ之ヲ為シ得ル所、内地ヲ遠ク離レテ幾星霜、不毛瘴癘ノ地ニ転戦シ、更ニ不踏ノ密林ヲ拓キテ営々大地ニ挑ミシ諸氏　＜レンパン＞ノ努力ハ、必ズヤ国家再建ノ原動力タリ得ベシ。<br />　コレ本職ノ敢テ本土帰還ヲ称シテ以テ門出トイウ所以ナリ。願ワクバ諸氏能ク本職ノ意ノアルトコロヲ体シ、身ヲ以テ邦家再建ノ闘士タランコトヲ。<br />　終リニ臨ミ海路ノ平安ト御健康ヲ祈ル　」　　　　　南馬軍司令官　　　石黒貞蔵<br /><br />　遂に我々は、焼け野が原と化した祖国日本に上陸した。広島に原子爆弾が投下された事も、其処で初めて知った。<br />　この荒れ果てた広島では、連合国軍将兵の傍若無人な振る舞い、戦争被害者の惨めな実態、女性の変貌等などを目の当りにし、竜宮から帰った浦島太郎のような錯覚に陥って　一様に悲憤慷慨　唇を噛んだ。<br />　そしてチュンポンの山中で　「　お前達は日本に帰り、荒れ果てた日本を再建する大事な仕事がある　」　と諭されたＫ班長の言葉を思い出したのである。<br />　文字通り九死に一生を得て帰国した昭和21年7月1日こそ私の生涯忘れられない記念日であり、生活が安定したら必ず多くの仲間達が尊い命を落とした東南アジアの地を訪れ冥福を祈る旅をしよう、と心に誓ったのであった。<br /> <br />　さらばレンパンよ　　又来るまでは<br />　しばし別れの　　　　涙をかくす・・・・・<br /><br />　2006年8月29日 (火)　記<br /><br /><a href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/photos/744.jpg" target="_blank"><img src="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/uploads/thumbs/744.jpg" align="left" alt="" /></a><br />
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    <title type="html">されど、満洲61年めに手にした両親・姉の形見</title>
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    <updated>2008-04-23T08:10:18+09:00</updated>
          <published>2008-04-23T08:10:18+09:00</published>
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      <name>シーメン</name>
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          <summary type="html"> 昨秋、姉が彼岸の地に旅たった。兄弟妹で鞍山の想い出を語るのは小生のみとなった。それは、亡き父母に生前聴いていたことがあった。 昭和２２年旧満洲から引揚時に父母が現地鞍山市で寄託した「預貯金通帳・証券類」の行方のことでした。小生自身永年気懸かりだっ ...</summary>
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        <![CDATA[
        　昨秋、姉が彼岸の地に旅たった。兄弟妹で鞍山の想い出を語るのは小生のみとなった。それは、亡き父母に生前聴いていたことがあった。<br />　昭和２２年旧満洲から引揚時に父母が現地鞍山市で寄託した「預貯金通帳・証券類」の行方のことでした。小生自身永年気懸かりだった一つであった。これらが在るのか、無いかでも知りたくて時間もかかり面倒なことでもあることを予想して思い切って探すことにした。<br />　引揚港が佐世保でしたので、今年２月長崎税関へ仔細を述べ問合せた。「同姓同名かも知れないが横浜税関に、父の名と同じではあるが該当するものあり」と連絡を受けた。一瞬「なぜ横浜税関？」と思った。暫くして横浜税関から細かい聴き取り調査を受けた。平成２０年３月１９日に、「当時の情勢」や「名残」「香り」のある「貯金通帳・証券など６物件」が、６１年めに私の手元に戻ってきた。早速墓参し、亡き父母姉に報告する事が出来た。<br /><br />　60年を超える時間を、持ち主が名乗り出ることを待ち続けた「形見」に、そして丁寧に保管していただいた「税関の方々」に感謝いたします。ありがとうございました。<br />　<br />最後に、まだ一つ想いが残るのは亡き父母が『鞍山で寄託した預貯金通帳・証券類がいつどのような方法（旧在満日本政府機関、船名など）やルートで横浜税関に届けられた』かが是非知りたいことです。ご存知の方がいらっしゃたら教えてください。　　シーメン<br /> <br />　
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    <title type="html">Re: 明治・大正・昭和を歩んだ祖父の記録から</title>
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    <updated>2008-04-16T17:36:05+09:00</updated>
          <published>2008-04-16T17:36:05+09:00</published>
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      <name>自然</name>
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          <summary type="html"> ◎ 百年のときを経て交わる後日譚 百年前の1911年に書留めた日誌に「我が子孫の為之を 誌す」とて 未だ少女年頃の母が登場し 其の十年後に は父と結縁 2年後に我れが子孫に連なった やがて先の草稿は本稿に改定され 披見は2007年である から 孫たる我は既に祖父を十 ...</summary>
              <content type="html">
        <![CDATA[
         　　　◎　百年のときを経て交わる後日譚<br />　百年前の1911年に書留めた日誌に「我が子孫の為之を<br />誌す」とて　未だ少女年頃の母が登場し　其の十年後に<br />は父と結縁 2年後に我れが子孫に連なった<br />　やがて先の草稿は本稿に改定され　披見は2007年である<br />から　孫たる我は既に祖父を十歳も超えて一世紀後に及ん<br />で事細かに述べられた事実に接した<br />　この外地居住は　父母の身罷った後も幼年から24年間に<br />及び 終戦を境に今日までの間　祖父に接した人達からは<br />何も聞く事無く「何故?」との自問を解く術べを失したが<br />記録に登場した亡き有縁の人達の真実の一々が想起され<br />それは自ずから「感応道交」の哲理を諦聴せしめ　総てが<br />心情豊かに解され　一々の文字を懐かしく拝しいる<br />
        ]]>
      </content>
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    <title type="html">Re: 南十字星の下で （５）ホベン</title>
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    <updated>2008-04-16T13:05:23+09:00</updated>
          <published>2008-04-16T13:05:23+09:00</published>
              <category term="伝承館フォーラム"/> 
        <author>
      <name>岡田義明</name>
                </author>
          <summary type="html">kousei3様 はじめまして... 「南十字星の下で」拝読致しております。 精細なる記述、その内容に驚愕しております。 私の父、＜岡田義男大尉＞は 戦時中、「近衛歩兵第三聯隊・東部六部隊」に所属し、「照7713部隊・多田隊」の一員として、パラオ島に派遣されており ...</summary>
              <content type="html">
        <![CDATA[
        kousei3様　はじめまして...<br /><br />「南十字星の下で」拝読致しております。<br />精細なる記述、その内容に驚愕しております。<br /><br />私の父、＜岡田義男大尉＞は　戦時中、「近衛歩兵第三聯隊・東部六部隊」に所属し、「照7713部隊・多田隊」の一員として、パラオ島に派遣されておりました。<br /><br />パラオ島にて、連日米軍の猛烈な空爆にさらされたという話は聞いていたのですが、詳細は不明にままです。<br /><br />kousei様　記述の中に、＜照部隊一個師団がパラオ防衛のため到着した　云々＞　とありますが、私の父がそのときにパラオに出撃したのか？　よくわかりません。<br /><br />大きな疑問は、父の所属した原隊である「近衛三聯隊」と「照部隊」との関係です・・・<br />「照兵団」は、＜歩2＞＜歩15＞＜歩59＞で編成されていたと聞いておりましたので、「近歩三・東部六部隊」との関連が　結びつかないのです・・・<br />　<br />もし、当時のその辺の状況など　お判りでしたら　ご教示賜りますれば幸いです。　不躾な＜メッセ＞、伏してお詫び申し上げます。　岡田義明<br /><br /><br />
        ]]>
      </content>
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    <title type="html">捕虜と通訳 （小林 一雄） （５８）</title>
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    <updated>2008-04-09T07:41:51+09:00</updated>
          <published>2008-04-09T07:41:51+09:00</published>
              <category term="伝承館フォーラム"/> 
        <author>
      <name>kousei3</name>
                </author>
          <summary type="html"> 第七章 進駐軍通訳に転身 これが私の戦後の始まりだ・その２ その彼らも、こうして接収する邸宅をお互い同士で奪い合っていた。まず上級の将校連中の間で競い、段々と下級者間でわれ先にと取り合う。入居するとアメリカ式に勝手に改造、日本式伝統の部屋はあとかた ...</summary>
              <content type="html">
        <![CDATA[
        　<br />　第七章　進駐軍通訳に転身<br />　　　　　これが私の戦後の始まりだ・その２<br /><br />　その彼らも、こうして接収する邸宅をお互い同士で奪い合っていた。まず上級の将校連中の間で競い、段々と下級者間でわれ先にと取り合う。入居するとアメリカ式に勝手に改造、日本式伝統の部屋はあとかたもなくなった。?民家争奪戦〃のようすは、横で見ていて滑稽（こっけい）なほどだったが、彼ら同士は真剣だった。こんな不意打ちの邸宅接収に音をあげた住民たちは「せめて同居を条件に一部の部屋だけを使ってほしい」「他に住むところもない。接収を免じてほしい」と私にプレゼント品を持って懇請の仲介を依頼する人がふえてきた。会社経営者や地主ら金持ちが多かったが、どうにもならず、プレゼント品を返し、お引きとり願った。とにかく、敗者に選び、拒否する権利はなかった。心ある将兵の中には同居に応じる人もあったが、個人の人柄の問題だった。私自身も情けなかった。<br />　とはいえ、接収住宅だけではアメリカ軍将兵の住宅需要を満たすことはできなかった。しばらくして広い浜寺公園を潰し、占領軍用住宅地に建設しなおす指令が出た。短期間にしゃれた大きな軍用住宅が完成し、彼ら占領軍妻帯者のほとんどはここへ受け入れた。だが、この建設に工事に当たっても受発注に利権がつきまとい、担当将校と日本側業者間の接待工作などが大っぴらに行われ、私ら選択も巻き込まれ、その対応には頭を痛めたことを覚えている。彼我ともに甘い汁を吸った関係者が多かったと思う。いつの時代にも、どこの社会にも絶えない?賄賂合戦"が横行していた。<br />　占領軍用のキャバレー設営の指令が出された。足場のよい大阪市の御堂筋沿いの大きな建て物を接収し改修した。すぐダンサー募集を開始したが、あのころ日本女性でダンスを踊れる人は少なかった。ちょっとでも経験したり、なかには未経験でも「知っている」と応募する若い女性がつめかけた。未復員の夫を待つ身で生活のためにという中高年の人妻も多かった。すべてはカネ…悲しい戦争直後の世相の一面だった。いわゆる?パンパン" の出現である。占領軍兵士の物資横流しも見聞した。神戸港から補給部隊のある大阪市の杉本町キャンプ（旧大阪商大学舎）　に大型トラック数十台で各種物資を運搬していた。その途中でそのなかの一台が物資を積んだまま丸ごと消え、キャンプについて台数不足から事件が発覚する。恐らく途中、誰かの手引きで別の場所に運び売りさばいていたのだろう。誰がどんな方法で行ったのか知る由もなかった。<br />　日本人が村ごと結束して占領軍に抵抗したこんな事件にも出くわした。中部地方の寒村で第一軍団管下のアメリカ兵が行方不明となり死体が海岸に浮き発見される事件が起きた。調査班が派遣され、私も同行を命じられた。小さな旅館に数日間、泊っての調査が行われたが、村民や駐在所の巡査、果ては村長にいたるまで参考質問しても犯人はわからなかった。通訳する私も困り果てた。いっさい地元の人は口を割らなかったからだ。真相は後日わかった。その兵士が村の若い娘に暴行したのを知った村民が兵士を殺し、仇討ちしたというものだった。「占領軍といえども人道上、許せない。われわれは正当だ」と村民は結束したという。原因は占領軍兵士だったといえようが、彼我ともに悲しい事件だった。<br />　教育改革を実施する準備に旧制中学校や旧制高女を巡回、教育方針や現状を調査したこともあった。教育担当将校やアメリカ人軍属の教育担当官らと巡回したが、わが母校の旧制大阪府立堺中学校（現三国丘高校）にも行った。私の恩師の一人がまだ同校で英語教師をしておりアメリカ側の要請で恩師にも通訳を依頼した。残念ながら読み、書きは大ベテランだが話すことが不得意だったので、思い余った恩師が卒直に謝り、私に通訳を逆依頼した。このことも戦後の学校英語教育のあり方の参考になった、とそのご、アメリカの担当官から聞かされた。あのころ、日本の学校英語は、読み書きは進んでいても会話、発音は大きく遅れ、十分話せる人は少ない時代だった。<br />　占領軍に勤務するかたわら、特別に要請されて堺市内の警察署や税務署、堺市の河盛安之介市長の通訳をしたことも多かった。警察署では?夜の女" 摘発、MPとの連絡調整。税務署では税務調査やヤミ酒醸造・販売事件と占領軍への連絡調整。市長の場合は占領軍に関連する各種イベントの通訳などだった。市長といえば戦後、間もなくある宮さまが堺市を訪問されることになり、金岡駐在のアメリカ軍の大隊長が「ぜひあいさつに殿下が部隊を訪れるよう措置してくれ」と市長に要請してきた。市長は「地方の大隊長にその必要はない」と強硬にこれを突つぱね、結局、市長のいう通りになった。後日、河盛市長や助役らはその大隊長以下、幹部将校を宴席に招いて丁重にもてなし１日本人の庶民感覚では皇室は特別のもので、もし貴殿のいう通りにしていたら、占領政策の実施にも悪い影響が出る恐れがあった」と説明した。大隊長も「日本人の国民感情を知らないで申し入れたことを反省している。ご協力への深い配慮に感謝する」と握手を交わしていた。列席した私ら通訳たちも両者の態度に感心した思い出が残っている。<br />　新円と旧円の交換をめぐつてもいろいろなことがあった。日本政府に対して占領軍GHQからその交換の時期、方法などがサゼッションされたが、その情報を当時の政治家のなかには事前に知っている人がいた。彼らは占領軍関係者に近づいて事前に旧円でヤミ物資を安く仕入れ、新円交換後、高く売りつける?ヤミ商人" と手を結ぶ人もあったと聞いた。具体的なことは寡聞にして知らない。悪徳商人や政治家の私腹肥やし、汚職の?ネタ" は、いつの時代、どこでもあとを断たないものだ。<br />　すべては終戦直後の混乱期の体験だった。新しい秩序が確立する前、古い秩序が破壊した直後、敗戦のショックを受けた日本人のすべてが生きることに精いっぱいの時期。明日への夢や希望を抱く余猶の生まれる余地どころではなかった時代だった。<br />　それにしても、戦犯裁判の証人として呼び出されたり、アメリカ占領軍に勤務した時代は、アメリカ軍の指示に絶対服従せざるを得ない立ち場だった。その前の捕虜収容所時代の立ち場が逆だっただけに、強者・勝者と弱者敗者ということ、運命の皮肉を痛感させられた。相手はいずれもアメリカ兵。しかし、私は二つの立ち場ともお互いに "一人の人間" としてつき合い、眺め、ある時は批判し、ある時は反省しながら歩んだつもりだ。だから苦しく、にがい思い出もあったが、すべてが懐しい。いま、関係者の多くの顔が、名前も思い出せないまま、走馬灯のように脳裏をかすめていく。<br />
        ]]>
      </content>
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    <title type="html">Re: 国破れて狡さのみあり</title>
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    <updated>2008-02-07T17:10:52+09:00</updated>
          <published>2008-02-07T17:10:52+09:00</published>
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          <summary type="html"> ５． もしも万一、日本に押しよせるというなら結構ではないか。七十万人までは受け入れましょう。こちらがダモイとだました訳ではなく、先方の意志で来るのだから心おきなくこき使うことが出来る。日本全国の土木工事は大いにはかどる。粗末なパンだけ与えて、最高 ...</summary>
              <content type="html">
        <![CDATA[
        <b>５．　</b>　もしも万一、日本に押しよせるというなら結構ではないか。七十万人までは受け入れましょう。こちらがダモイとだました訳ではなく、先方の意志で来るのだから心おきなくこき使うことが出来る。日本全国の土木工事は大いにはかどる。粗末なパンだけ与えて、最高十一年までは使ってもよい。もちろん賃金などは一切払う必要はない。労働証明書というのをくれてやって、金はロシア政府から貰えと言えばよい。苦情を言う者があったら、斎藤六郎を見習え、と言ってやればよい。<br /><br />　何の自助努力もしないで、援助をくれなければ難民が出るぞ、保守派が復活するぞ、などと弱者の個喝をくり返しながら手を差しのべる横着者に唯々諾々と金を与えることは、彼らの掠奪体質と怠慢を助長して、さらに大きな要求を誘発するだけだ。<br /><br />借款の利子すら払わぬくせに、海外の銀行には莫大な隠し預金があることは今や公然の秘密である。米英の金融筋などによると、外貨のひそかな持ち出しは、数年前から行われていたが、そのピークは一昨年のクーデターの前で、その時だけで数百億ドル。<br /><br />　スイス、フランス、南米などの銀行の秘密口座の数は数千に及び、総額は推測するしかないが、一千億ドルという数字すらあり、少なくも数百億ドルはあるらしい。これは主として旧共産党によって持ち出されたものだが、それだけではない。<br /><br />最近の大統領府と最高会議側の相互の汚職暴露と非難合戦によって、現在でも双方の上層部メンバーによって外貨のくすね取りと海外への隠匿が行われていることが明らかになってしまった。<br /><br />　かつて、ソ連に食糧がない、とマスコミがあおり、社会党の土井たか子が純情にもラーメン十万食を寄贈したことがあった。社会党が長年にわたり、ソ連共産党から政治資金を貰ってきたことのお返しのつもりだったのかも知れないが、これはモスクワのドルショップで売り捌かれて外貨に化け、誰かのポケットに入ってしまった。<br /><br />どういう名目で誰に渡されようと、援助は要所々々に待ち伏せするこれらの泥棒たちにくすねられて、彼らの口座がふくらむだけである。彼らに対する最も有効な支援とは、何も支援しないことによる自立精神の函養であると思う。?国敗れて校さのみあり″では金輪際詩にもならぬではないか。<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（了）<br />
        ]]>
      </content>
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    <title type="html">Re: 教会の廃墟と国民総泥棒ぶり ― 共産国家で見てきたこと ―</title>
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    <updated>2008-02-06T18:33:11+09:00</updated>
          <published>2008-02-06T18:33:11+09:00</published>
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          <summary type="html"> 御存知漁業相イシコフ銃殺 以前、ソ連漁業省にイシコフという大臣がいた。二十何年大臣の椅子にあり、日本にも何回かきた著名人で、その下にいた次官は私共のやっていた魚の輸入商談にも何回か出てきた人物だが、この次官がある日突然いなくなった。 同時に顔なじ ...</summary>
              <content type="html">
        <![CDATA[
        <b>御存知漁業相イシコフ銃殺</b><br /><br />以前、ソ連漁業省にイシコフという大臣がいた。二十何年大臣の椅子にあり、日本にも何回かきた著名人で、その下にいた次官は私共のやっていた魚の輸入商談にも何回か出てきた人物だが、この次官がある日突然いなくなった。<br /><br />同時に顔なじみの省の役人も何人か消えてしまった。変だな、と思っているうちに日本でも報道された例のキャビア事件が明るみに出てきた。あるモスクワの市民が安いニシンの缶詰を買ったところ、中には庶民の手には届かない高価なキャビアがつまっていたことから騒ぎが始まり、官僚の調査によって漁業省の組織ぐるみの犯罪であることが分かった。<br /><br />　キャビアを缶詰にしてニシンのレッテルを貼り、ニシンとしてごく安い価格で西側に輸出し、そのバイヤーからは多額の外貨を裏口座に入金させて大臣以下関係者で分け合っていたのだが、何かの間違いで一部が国内向けに出荷されたことから明るみに出た。これは外国にも広く知れわたってしまったためか、大臣、次官は銃殺されたという。十五年くらい前の話である。<br /><br />ロシアの小噺に「ソ連くらい豊かな国は世界中にない」というのがある。革命以来七十年ほども二億を超す国民全員が、これだけ国から盗んでも、まだ盗むものが残っているから、というのがオチである。キャビア事件などは氷山の一角で、組織ぐるみの盗みはいたる所でみられる。<br /><br />　数年前アルメニアで大地震があり、多数の建物が倒壊して多くの死傷者が出たが、現地を視察に来たゴルバチョフが「誰がセメントを盗んだか、だ」と言ったのも、その一例で、建設企業がセメントを横流しして、不足した分だけ砂利を多く入れた粗悪な建材が事故を大きくした、と言っているのだ。<br /><br />　ソ連崩壊後、総泥棒はエスカレートの一途である。西側の援助物資も宛先に届かない。昨年（平成四年）一月二十三日付のイズベスチヤによれば、届くのは僅かに六〜七％で、あとはすべて盗まれて消えるという。<br /><br />西独の提供した多額のマルク援助も、誰が受け取ってどこに使ったか、分からぬものが大分あるという。本日（平成五年三月二十日）付の日本の各紙は、斜陽の英雄エリツィン支援の会議が四月に東京で開催されることを報じている。だが、支援自体の当否はさておき、あの総泥棒国家に対して有効な支援の方法などが一体あり得るだろうか。<br /><br />　いまロシアでは教会が復活しつつある。もっとも、いままでも完全に抑圧されていたわけではなく、既に六十年代にはモスクワ市内のいくつかの教会に限って日曜日の礼拝が行われていた。礼拝に集ってきたのはほとんどが老婆であった。聞くところによれば、独ソ戦の最中、民衆は夫を、父を失い、生活は苦しく、あまりの辛さに教会に行って神に救いを求める人たちがでてきたので、スターリンもやむなく一部をオープンしたのだという。<br /><br />日曜の朝、その教会に行ってみると、老婆たちは壁にならぶ聖像の前にひざまづき、頭を深く垂れて長ながと祈り、聖像に接吻して次の聖像の前に移って行く。ハルビンを思い出してタイムトンネルの中に入ったような気になった。<br /><br />昔ながらの信仰は、一部の老人たちの間にだけ地下茎のように細く、暗く、続いていたということになる。数年前からだが、いままで打ち捨てられていた教会や修道院がロシア正教側に返還され始め、昨年はクレムリン内外のいくつかの聖堂や、歴史的建造物としても有名なウスペンスキー寺院なども返された。これからは信徒の寄進などで逐次修復が行われるのだという。<br /><br />また、最近は一種の流行のようになったせいもあって、教会に足をはこぶ人の数が増えているようだ。いずれも結構なことである。しかし教会がこれから本当に人びとの信仰を集めることができるのだろうか。それが人びとの精神の浄化に役立つだろうか。何百年の先はいざ知らず、近未来的には恐らく不可能だろう。表土層が崩落して岩肌がむき出しになった山には、いくら苗木をさし込んでも緑はよみがえらない。<br /><br />　ソ連共産党支配の七十数年の間に、人びとの心、魂はあまりにも深く破壊し尽くされてしまっている。その結果、人びとは人間としての誇りを失い、恥を忘れ、見るもあさましい総泥棒と化した。聖職者たちがこれからいくら熱心に神の道を説いても、信仰の苗が根付くべき心の表土層はすでにどこにも無いのである。<br /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　(おわり)
        ]]>
      </content>
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    <title type="html">Re: 沖縄特攻に散った山中正八に捧げる43年目の弔詞</title>
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    <updated>2008-02-06T18:13:35+09:00</updated>
          <published>2008-02-06T18:13:35+09:00</published>
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          <summary type="html">一月二六日 鬼怒川、大宮間ニテ変針測風 海上夜間飛行二出ルモ 雪ノタメ引キ返ス 一月二七日 空襲警報 夜間飛行訓練 一月二九日 宝積寺（栃木県）−水戸−洋上−豊浦（茨城）−飛行場 夜間飛行 飛行機ハ楽シイ 一月三〇日 鬼怒川橋−鉾田（茨城県）−洋上−久慈−飛行場 一 ...</summary>
              <content type="html">
        <![CDATA[
        一月二六日　　　　<br />鬼怒川、大宮間ニテ変針測風　海上夜間飛行二出ルモ　雪ノタメ引キ返ス<br /><br />一月二七日　　　　<br />空襲警報　夜間飛行訓練<br /><br />一月二九日　　　　<br />宝積寺（栃木県）−水戸−洋上−豊浦（茨城）−飛行場　夜間飛行　飛行機ハ楽シイ<br /><br />一月三〇日　　　　<br />鬼怒川橋−鉾田（茨城県）−洋上−久慈−飛行場<br /><br />一月三一日　　　　<br />室井サンノ家ヲ訪レル<br />　<br />二月三日　　　　<br />人、心身ノ実ハ　依ツテ腹中ヨリ来ルベシ　美麗　香味　以テソノ食餌ニヨル深ク之ヲ慎ムベシ<br />　<br />二月四日　　　<br />「人間五〇年　人間化転ノ内ヲ比ブレバ夢幻ノ如シ一度」ト謡ヒシ信長ノ心事　亦　佳シ　今　皇国ノ安危ヲ思ヒ　人間二十年ニシテ満足スベキナリ　若キ日ノ感傷　又　愚ナランカ　愚ナラズ　　静カニ之ヲ観ジ　自ラ観ズレバ　転心感慨ナカルベカラズ　清純ナル心ノ発スル所　混迷ヲ去リ　明鏡<span style="color: #CC9900;">《めいきょう＝くもりの無い-》</span>水ヲ止メ　サレド一抹ノ哀愁アルベシ　人ノ子ナレバ　未ダ若ケレバ　大義ニ生クル心　能ク之ニ克ツベシ　克ツベシ　父へ　母へ　弟　妹へ<br />　大君ノ民族ノ想イハ変り行クベシ<br /><br />二月五日　　　　<br />洋上低空目測飛行訓練<br /><br />二月六日　　　　<br />前日二同ジ　&#37632;山中尉機　水戸二不時着陸ス<br /><br />二月九日　　　　<br />三辺航法　飛行場−水戸−洋上<br /><br />二月十日　　　　<br />三辺航法　飛行場−鉾田−洋上<br />B−29梯団　各梯団十機内外ニテ飛行場上空通過　鮮ヤカナ航跡ヲ引キ　敵ナガラ天晴ナ編隊ナリ　今ニ　我等　汝等ノ上ニ爆弾ノ雨ヲ御見舞申サン<br /><br />二月十一日　　　<br />三辺航法　前日ニ同ジ　航法モ熟練セシト自覚ス　後ハ只演習卜努力ニ依ル習練ノミ<br /><br />二月十三日　　　<br />三辺航法　前日ニ同ジ　機上通信ヲ実施ス<br /><br />二月十四日　　　<br />週番士官ニ叱責サル<br /><br />二月十五日　　　<br />心中ノ敵卜戦ヒテ克チタシ<br /><br />二月十六日　　　<br />敵米ノ企図ハ　終ニ我ガ本土ニ及ブ　早朝ヨリ波状攻撃ヲ以テ関東各地ニ進入シ　遂ニ薄暮ニ及ビタリ　愈々決戦へト驀進ス<br />（この日、関東地方に一千機来襲し、二月十九日の米軍の硫黄島上陸の支援行動をとる）<br />「不淡白ナリ」卜主任教官殿ヨリ注意サル　余ハ此ノ恥辱万斛<span style="color: #CC9900;">《ばんかい＝総てのものに先がけて》</span>ノ涙ヲ呑ム　退団ニ処サルトモ更ニイズ　サレド我ガ戦友ノ微衷<span style="color: #CC9900;">《びちゅう＝心の中》</span>ヲ察セザルヤ　只　独ソ自己立安ニ馳リテ　一歩ヲ進メテ　他ノ苦衷ヲ偲ブ情ナシ　之ヲ憾ミテ思フハ非力　申シ開キハ為シ申サズ<br /><br />二月二四日　　　<br />午後、会合法　霞ケ浦上空ヲ盛ンニ旋回ス<br /><br />三月一日　　　　<br />修業、目捷<span style="color: #CC9900;">《もくしょう＝目と睫毛》</span>ノ間ニ迫リタリ　悠揚トシテ闊歩<span style="color: #CC9900;">《かっぽ＝大またに歩く》</span>スベシ　将校団ノ団結ヲ阻害スルモノ　１．不平　２．悲観　３．妥協心　４．出身別<br /><br />四月十一日　　　<br />以下五枚　極秘<br />　夜　忝くも大命を拝す<span style="color: #CC9900;">《命令を受ける》</span>　一死以て皇恩に応へ奉らんと覚悟す　馳せ参ずるもの　第二中隊見習士官室全員　橋本、長尾　第三中隊吉野、第一中隊　岡田少尉殿　ともどもに航法者として参ず　会合後　死ねるかと　中隊長殿に言われ　莞爾<span style="color: #CC9900;">《かんじ＝にっこり笑う》</span>として「ハイ」と応ふ<br />無心にて壮途を祝して　遊ぶ<br />我が同乗者　溝田彦二少尉殿（陸軍士官学校第五六期）　田中弥一伍長(二三歳)　高尾峯望兵長(十九歳・少年飛行兵出身)<br /><br />四月十二日　　　<br />十三時　出陣式　　戦隊長御訓示（菊水作戦発令）<br />東方遥拝　皇城に訣別し奉る　聖寿万才　之より　福本中尉殿に桜花の下に写真を取って戴く　溝田少尉殿と二、三枚とる　関の叔父に顔もよく似られ　性格もそのまま　豪放磊落な青年将校である<br />　高尾兵長は紅顔の美少年　桜も蕾　可惜　二〇年を散る桜なり<br /><br />四月十二日　<br />戦隊長機　離陸後失速　墜落　焼死す　戦隊長殿　第一中隊長殿　福永大尉殿　伊藤大尉殿　○○中尉殿（判読不能）岡田少尉殿等　十二名　壮途半ばにして散華し給ふ<br />　先発　各務原に行きし各中隊機当○○夕刻着す　三中隊機　車輪不具合　胴体着陸　第二中隊機　飛行場に突込み　○○十名　又　勇途空しく散る　可惜　○○しき攻撃を前にして　又　悲しくもあれ　第一中隊　海没<span style="color: #CC9900;">《海に沈む》</span>　かくて若干戦力を減ぜるも我等の攻撃精神些　　も衰えず　益々盛んなり　旅館に宿泊す　（福岡県朝倉郡甘木町いろは旅館）<br />　（判読不能の文字が続出し、心の動揺が見える）<br />　住所録（父の清八を筆頭にして十二名分が記入されている）<br /><br />四月二二日　<br />記　以下　戦友部下に託してお送りいたします<br />（以下　四四頁空白）<br />　人間○○○のうちを比ぶれは　夢幻<span style="color: #CC9900;">《むげん＝夢まぼろし》</span>の如し一度生を得て　滅ぜざるもの有るべきか（以下二二字判読不能）<br />　結婚について<br />（その五頁あと一四九貫目）　我は海の子　さすらひの<br />　（以下五行　判読不能）<br /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　(了)
        ]]>
      </content>
      </entry>
  <entry>
    <title type="html">Re: 阪神大震災と私</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=804&amp;post_id=3361#forumpost3361" />
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    <updated>2008-02-05T22:20:12+09:00</updated>
          <published>2008-02-05T22:20:12+09:00</published>
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          <summary type="html"> 在籍同窓会員の無事を本部へ報告 廿八日、最後まで様子の判らなかった20期湯尾弘先輩が長田区蓮池小に避難して居られるのが判り電話で無事を確認、やっと在籍全員の無事を本部に報告する。やれやれよかった。 地震から一週間あまりの間、リュックに救急食や水、懐 ...</summary>
              <content type="html">
        <![CDATA[
        <b>在籍同窓会員の無事を本部へ報告</b><br /><br />廿八日、最後まで様子の判らなかった20期湯尾弘先輩が長田区蓮池小に避難して居られるのが判り電話で無事を確認、やっと在籍全員の無事を本部に報告する。やれやれよかった。<br /><br />　地震から一週間あまりの間、リュックに救急食や水、懐中電灯などをつめて枕元に置き、二人共二階で寝たが、のど元過ぎれば何とやらで、つい面倒になった。万一の場合、どちらか片方が残ったら悲劇だが、一緒に死ぬのだったら思い残すこともあるまいと、又階下で寝ることにした。<br /><br />今回の地震で、神戸市の死者二六〇〇人の九六％、二二六四人は発生から十五分以内の圧死だったと云う。親や子が、夫が妻が、それぞれを瓦礫<span style="color: #CC9900;">《がれき》</span>や火の手から救い出すことが出来ず、最後まで手を握り合い励まし合い乍ら、到々かんにんしてと別れざるを得なかった惨酷<span style="color: #CC9900;">《さんこく：残酷（ざんこく）に同じ。ひどくむごたらしいさま》</span>な事実を我身に置きかえると、とても人事とは思えず涙が溢れてやまない。<br /><br />この震災で傷ついた街々、人々が一日も早く立ち直って、再生への意欲を持たれる様心からお祈りする。<br /><br />　扨、新聞の報ずるところに依れば、我が町東淀川区にも、本年度補正予算で震度計が設置されることになったそうだ。声無き声が聞こえたのかな！　　<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　三月十日<br /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　(おわり)<br />
        ]]>
      </content>
      </entry>
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    <title type="html">Re: 備忘の独白</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&amp;topic_id=803&amp;post_id=3357#forumpost3357" />
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    <updated>2008-02-05T21:59:58+09:00</updated>
          <published>2008-02-05T21:59:58+09:00</published>
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      <name>kousei2</name>
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          <summary type="html"> 東部満ソ国境の雲行きが怪しくなり七五八〇部隊の一部とともに横道河子近郊に駐屯することになった。その兵員の一人であった私のところに十六期の先輩丁南信四郎さんが現れたのは奇縁とも言うべきか。兵長である彼が兵員名簿の中に私の名前を発見して内務班を訪れ ...</summary>
              <content type="html">
        <![CDATA[
        　<br />　東部満ソ国境の雲行きが怪しくなり七五八〇部隊の一部とともに横道河子近郊に駐屯することになった。その兵員の一人であった私のところに十六期の先輩丁南信四郎さんが現れたのは奇縁とも言うべきか。兵長である彼が兵員名簿の中に私の名前を発見して内務班を訪れた由で、助教授であった彼に思わぬところで再会出来た喜びと異常環境下なので大いに意を強くしたものである。<br /><br />　主力を南方に転戦させた関東軍は、その後日ならずして国境線を突破し怒涛の勢いで侵攻して来たソ連軍に対し、何ら抵抗の術もなく後退を続け、後方通信部隊に過ぎないわれわれにも急遽原隊復帰の命令が下った。貨車輸送で逃れるように哈爾浜を経由新京に着いた部隊が、八月十五日市内の大同公園で小休止中、終戦の詔勅がラヂオの電波に乗ったことを聞き知った。<br /><br />　とりあえず南嶺の原隊に戻った兵隊たちは未曽有の敗戦という憂目に遭い、外地で存在価値を失った軍隊の中に身を置いている現実に対し、いずれもこれからの身の去就にとまどう混迷に追い込まれたのである。<br /><br />　点呼も訓練も皆無、ただ食べて寝るだけの内務班に悲観的な流言のみが漂っていた。<br /><br />　二日後、「全テノ兵ハ現地除隊トスル。軍隊輸送ヲ以テ内地帰還ヲ希望スル者ハ申シ出ヨ」という通達があった。その夜突然南先輩が深刻な顔で現れ、「内地に帰ってもアメリカに占領されている。ここに残ってもソ連の占領下に奴隷のように酷使されるのは明らかだ。俺は戦友と一緒に八路軍に入るか馬賊の道を選び、興安嶺に向かう。堀田も同行したらどうだ。」との勧誘で迫った。<br /><br />　折りから野坂参三なる人物が八路軍の中枢にいて中支方面の旧日本軍を糾合東征し、内地占領のアメリカ軍に反撃するらしいという噂まで流れた。先輩の意見もさも有りなんである。日本内地から応召または出征して来た大半の兵士たちは躊躇なく軍隊輸送での内地帰還を望んでいるようだ。私の気持も大いにこれに傾いた。<br /><br />　しかし国破れては暗澹たる前途に生命の保証すら予測出来ぬ事態に直面し、はたまた現地に留まるべきか、三つに一つの選択である。重く立ちはだかった人生の岐路に直面し、思い悩んだ末、私は一番不安定な現地離隊の道を選んでいた。<br /><br />　いつまでも軍隊という非人間的権力構造に縫って生き抜くよりも、三年有余の哈爾浜時代と新京での通算七カ月に及ぶ市民生活での自信をもとに、如何に異国と変貌しようとも、この地に居留する同胞の群にこの身を投じ、人間らしい自分自身の活路を見つけたいという意思作用は、かつて文芸に親しみ美術を愛した一リベラリストの究極の選択でもあった。<br /><br />　米、味噌、調味品、軍手軍足にいたるまで持てるだけのものを軍用毛布に包みこみ、背中に負ってさながら蟻のごとく兵営の門を後にしたのは昭和二十年八月十九日の朝まだきであったと記憶している。<br /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（おわり）<br />
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    <title type="html">Re: 沖縄に散華した21期:山中正八見習士官をしのんで</title>
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    <updated>2008-02-04T22:56:28+09:00</updated>
          <published>2008-02-04T22:56:28+09:00</published>
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          <summary type="html"> 私の略歴：こうして飛行機乗りを決意した 最後に私の略歴とともに、何故特攻への道を選んだかにふれてみたい。 昭和十二年に学院を卒業後、大同学院を経て満州国財政部（後に経済部）に奉職した。在職六年弱の間に八カ所の異動があり、経済部の過半の仕事を勉強さ ...</summary>
              <content type="html">
        <![CDATA[
        <b>私の略歴：こうして飛行機乗りを決意した</b><br /><br />最後に私の略歴とともに、何故特攻への道を選んだかにふれてみたい。<br /><br />　昭和十二年に学院を卒業後、大同学院を経て満州国財政部（後に経済部）に奉職した。在職六年弱の間に八カ所の異動があり、経済部の過半の仕事を勉強させられた。<br /><br />　財政部と産業部の合併により経済部が誕生すると、人的融和は思うにまかせず、人事交流を行うこととなり、旧産業部より局（司）の総括科長を旧財政部へ、旧財政部より私が旧産業部の総括担当事務官として派遣された。私は初めて産業行政にたずさわることとなった。<br /><br />　当時、既に建設資材などは相当逼迫しており、生活必需品　（民需物資）関係への資材割当はほとんどなく、また担当部署もなかった。やむなく総括担当の私が担当責任者となった。物動の元締めの企画処とは、常に口論が絶えず、若かった私は、何時もカッカしていた。生活必需品など扱う者は、国賊扱いであった。<br /><br />　業界内でもしばしば醜い争いがあった。印刷インキの業界は、小さい業界ではあったが、なかなか政治的な動きをした。関東軍司令部の地下には、軍の秘密印刷工場があり、日本の大手印刷会社出身で幹部候補生出身の少尉が、専門知識をかわれて実質的な運営に当っていた。業界は二分しており、一方にとって私の存在は邪魔であったようである。少尉に働きかけ、憲兵隊<span style="color: #CC9900;">《けんぺいたい＝注》</span>の曹長クラスを抱き込み、私をなきものにしようと計画した。私服の憲兵二人が役所に現れて私に、憲兵隊への出頭を求めた。<br /><br />　相手が憲兵隊のこととて、上司も全く手が出せなかった。私の頭に浮かんだのは関東軍憲兵司令部の平野課長であった。平野課長は、私が山海関<span style="color: #CC9900;">《中国東北部の万里の頂上の東端に位置する街》</span>税関に勤務していた時の山海関憲兵隊長であつた関係で幾度か一緒に酒をくみかわしたことがあった。二人の私服憲兵の眼の前で早速電話をして事情を説明したところ、その二人は私の所の者だから直ぐ、私の所へ来るように申し付けてくれとのことであり、二人は私に捨てぜりふをのこして立ち去った。<br /><br />（余談ながら平野課長は少将に昇進、憲兵司令官として南方へ。戦後、戦犯としてモロタイ島へ送られ、私はモロタイ島戦犯キャンプで再会した。ある時、死刑囚用の独房に入れられた私に、キャンプの人たちは「財前中尉、死なないで下さい」と毎日連呼してくれた。その平野少将は連合軍の拷問<span style="color: #CC9900;">《ごうもん＝自白を強要する為肉体を責める》</span>で命をおとされた。私は帰国を前にお墓に別れをつげた）。<br /><br />このような事が重なり、私は再び旧財政部へ呼び戻され、企画処へ出向か、兼務が発令されることとなった。<br /><br />一方、十八年夏、秋と戦況は厳しさを増し、戦いの帰趨<span style="color: #CC9900;">《きすう＝行き着くところ》</span>は航空戦力にあることは明らかだった。醜い世間に背を向けて自分白身飛行機乗りになることを決意した。海軍航空予備学生は満二十六歳以下と制限があったが、陸軍特別操縦見習士官にはそれがなく、同年八月で満二十九歳になった私は、新京<span style="color: #CC9900;">《中国東北部現在の長春》</span>で受験してパスした。十月一日入校なので直ちに退職願を出して九月には帰国した。帰国後、経済部から「関東軍から退職願を受理しないように連絡があった」との通知が来た。<br /><br />　入隊の通知は一向に来ないので、航空本部に出掛けたところ、担当の大内大尉は困ったような顔をしていた。二度目に出掛けたら、石川参謀に逢ってくれとのこと。石川参謀から、関東軍から内々の連絡があり、出来れば再考してくれとのことであった。<br /><br />しばらくして、航空本部から電報があり、出頭すると、上層部とも相談した結果、本人の意思にまかせたらということになったのでと、飛行学校各教育隊の配置図を見せ、自分で選定してくれとのことで、宇都宮陸軍飛行学校本校に入校することとした。<br /><br />　十八年十一月に宇都宮飛行学校に出向くと、航空本部より連絡を受けていて、校長室で入校式を行うと告げられた。ところが、校長室での単独入校式は、例外的に朝香宮の折りに行ったが、臣下では例がないこと故、当分背広で起居するようにとのこと。<br /><br />背広での軍隊生活は、おそらく陸軍始まって以来のことであったと思う。入校も、同期生より一ヶ月以上も遅れ、入隊後十一ヶ月足らずで、少尉に任官し、士官学校出身者にしばしば皮肉られることとなった。その後幾たびか、紙一重で命を拾い、二十二年五月に復員した。<br /><br />　戦後は経済安定本部に奉職、経済審議庁、経済企画庁へと移り、局課長、官房会計課長、経済企画庁審議官などを歴任、四十四年に退官した。<br /><br />　昨年昭和天皇のご大葬に当たり、新宿御苑のご大葬場で陛下の御柩をお送りする光栄に浴し、昭和の御代の終わりとともに、一つの時代が終わったことを痛感したことだった。（平成二年九月記す）<br /><br />注　平時では軍隊内部の秩序　規則の維持　戦時では交通整理や捕虜取り扱い業務を行なう兵科<br />
        ]]>
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    <title type="html">Re: 佐賀−撫順−哈爾浜シベリヤー佐賀−関西</title>
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    <updated>2008-02-03T19:44:58+09:00</updated>
          <published>2008-02-03T19:44:58+09:00</published>
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      <name>あんみつ姫</name>
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          <summary type="html"> 八、徴兵検査 《注1》 で、憲兵にポカリ！ 昭和十人年十一月の繰り上げ卒業を前に、十月には哈爾浜陸軍病院で徴兵検査を受けた。徴兵猶予 《注2》 が打ち切られて十二月一日の学徒出陣 《注3》 への前奏だった。 検査も終わり、検査官から「甲種合格！」 《注４》  ...</summary>
              <content type="html">
        <![CDATA[
        <b>　八、徴兵検査<span style="color: #CC9900;">《注1》</span>で、憲兵にポカリ！</b><br />　昭和十人年十一月の繰り上げ卒業を前に、十月には哈爾浜陸軍病院で徴兵検査を受けた。徴兵猶予<span style="color: #CC9900;">《注2》</span> が打ち切られて十二月一日の学徒出陣<span style="color: #CC9900;">《注3》</span>への前奏だった。<br /><br />　検査も終わり、検査官から「甲種合格！」<span style="color: #CC9900;">《注４》</span> を申し渡されたのはいいが、寝不足と予想どおりの甲種合格にホッとしたせいか、廊下で他の連中を待つ間に、ついウトウト。それを目にした下士官の憲兵<span style="color: #CC9900;">《注5》</span>の一人に「ちょっと来い」と連れて行かれ「貴様、神聖な場所で居眠りするとは何ごとか⊥と怒鳴られたあげく、ビンタを数発くらったのには腹が立つこと。「この野郎」と思った。<br /><br />　そのお返しといえば大仰になるが、昭和二十年二月、見習士官で黒河の部隊に勤務中、雪中行軍で初年兵を引率して黒河の街に行き、一時間余り外出許可を出して解放してやった。<br />　<br />　すると二、三十分もしたところで「憲兵の軍曹がえらい権幕でやって来て、部隊の責任者は誰だと言ってます」と下士官が報告してきた。行くと、その憲兵が強い口調で「国境の街で兵隊を外出させては困る」と決めつけてきたので、徴兵検査の際の怨念？をかき立てて「俺が全責任を取る。何を言うか」と怒鳴りつけたら、その憲兵は恐れ入った風情で帰って行った。<br /><br /><br /><b>九、終戦ー欧霹の収容所−引揚げ</b><br />　あと先になるが、学徒出陣での入隊は遼陽<span style="color: #CC9900;">《中国東北部遼寧省の都市》</span> の歩兵三一人部隊。早速、特別操縦見習士官<span style="color: #CC9900;">《航空機の操縦選科の士官》</span>に応募したが、満洲の学生は駄目とのことでガツカリ。<br />　<br />　延吉<span style="color: #CC9900;">《中国吉林省延辺朝鮮自治区の都市》</span>の予備士官学校<span style="color: #CC9900;">《予備役士官を養成する機関》</span>を昭和十九年十二月に出た時の卒業式に撫順からはるばる母と長兄が来賓として来てくれた。何とも嬉しかった。<br /><br />　南方転出で原隊がなく、孫呉で隣りの部隊に立石（川野）が幹部候補生<span style="color: #CC9900;">《将来士官採用予定試験合格者》</span>でいると聞いて面会、煙草をもらって帰る。そのごも国境の部隊を転々として春先から強行軍と野営を繰り返しつつチチハルへ後退。ここでラグビー部長の小谷（玉置）保上等兵と会う。<br /><br />　そして八月九日未明のソ連参戦。ハイラル<span style="color: #CC9900;">《中国内モンゴル自治区東北部にある都市》</span>救援とのことで夜半、列車に乗せられ翌朝、着いてビックリ、何と哈爾浜駅だった。ミルエル兵舎に入ったところで終戦。九月に郊外で武装解除。将校は帯刀だけは許される。やがて貨車輸送と行軍とで牡丹江の収容所に。ここで上等兵の幹候の記章をつけた作間に会い、食い物をもらった。将校の体面もあって、あくせく食糧あさりも出来ぬとあって、食べ物に苦労していただけに、とても有難かったことを覚えている。<br /><br />　作業大隊に編成され、ハバロフスク<span style="color: #CC9900;">《ロシア沿海州の中枢の都市》</span>から一ケ月後にウラル山脈を越えて欧露の地へ入り、ラーダー収容所に着く。ドイツ人がいた。<br /><br />　一年足らずで、こんどは古都カザンの近くのエラブカに移る。A、Bに分かれ、Aラーゲリには炊事に宇野、浴場に宮田、診療所に城所（水野）、本部に鹿井義輝先輩（8期）と私がいた。ここは四階建ての白亜の立派な建物で、独ソ戦では一時モスクワ大学が避難していたとか。<br /><br />　昭和二十二年に入った頃から輸送が始まり、ナホトカ<span style="color: #CC9900;">《ロシア沿海州南端の港湾都市》</span>では、何度か呼び出しを受けて残留を求められたが、断った。十二月に入ってやっと乗船して、日本へ帰れる喜びに震えたが、船中でソ連カブレの若い将校と二、三トラブルになったものの、大事に至らず舞鶴に上陸した。<br /><br />　復員手続は済んだのに、米軍に呼び出されてソ連の事情を聴取されて、佐賀駅に着いた